黒 の 主 〜冒険者の章・七〜





  【54】



 まだ早朝と言える時間、気配を殺した……それでも僅かな気配を感じて、カリンは目を開いた。もとからそういう教育を受けてきたから部屋に入られて気づかないなんて事はないし、それに彼女が来る事は予想していたというのもあった。

「やはり、来ると思ってた?」

 カリンが起き上がっても驚く事なく、エリーダは笑って椅子に腰かけた。

「はい、話があると思いましたから」

 エリーダはそれにくすりと笑う。

「そうね、大した話じゃないけど……少しだけ、聞きたい事があったから。ねぇ……貴女は今、幸せ?」
「はい」

 即答で返せば、彼女は笑みを深くする。

「いいわね、羨ましいわ」
「私は運が良かっただけです。貴女も……」

 しかし言いかけた言葉は彼女の言葉に遮られる。

「ううん、私は無理。……だって私、貴女があそこで来なければ、本気で彼を殺すつもりだったもの」

 エリーダは笑っている。けれどそれは作り物の笑顔だ。

「貴女があの男のところに行った時、貴女はまだ仕事らしい仕事をしたことがなかったでしょう? でも私は違う、既に何度か仕事をこなして……だからもう、貴女のように修正は効かない、今更それ以外の生き方なんて出来ないの」
「でも……そんなのやってみなければ分からないのでは? 貴女とエルが望むなら、セイネリア様ならどうにかして……」

 それに彼女は首を振る。笑みはそのままだったが、それは哀しそうだった。

「だめよ。でもいいの、少しだけ楽しい時間を味わえたから、それで十分」
「でもっ……」

 声を上げたカリンに、エリーダはそっと唇に人差し指を立てて見せた。それでカリンも口を閉じる。この部屋で大声を出すと廊下に声が漏れるかもしれない――それを思い出して思わず口を手で押さえたカリンを見て、エリーダは笑う。ずっと冷たく表情を消したその瞳を本当に嬉しそうに細めて、綺麗に微笑んで彼女は言った。

「そうね、もし彼がもっと冷酷で……いざとなったら私を迷いなく切り捨てて殺してくれるような人だったら、ちょっと望みを持ったかもしれないかな」

 それに何か言おうとして開きかけた口をカリンは閉じた。彼女のその言葉の後には『貴女の主のように』と付くのが分かってしまったからだ。自分で言った『運が良かった』と言う言葉はまさにセイネリアがそういう意味でも文句のつけようがない人物だった事もあるとカリンは気づいた。

「別に貴女が罪悪感を感じる必要なんてないのよ。というか、そんな顔が出来る段階で貴女はやっぱり私とは違う、完全に『犬』になる前に違う生き方を選べて本当に貴女は運が良かったわ」

 カリンは彼女に掛ける言葉が思いつかなかった。
 エリーダの笑みはそのまま曇る事なく、本当に嬉しそうに、楽しそうに彼女は言った。

「ねぇ、貴女の事はね、実は私達の間ではちょっとした噂になっているのよ。貴女が幸せになってくれたなら私達は嬉しいの。たとえ『犬』として育てられても……貴女のように運命を変えられる事があるかもしれないって思えるから。貴女は全てを諦めた私達の希望でもあるのよ」

 カリンは知っている。ボーセリングの犬として生きる事しか教えられてこなかった者達の気持ちを。それしか生きる意味がなくて、自分の命を惜しむ気持ちもなかった。一緒に育った者達が一人消え、また一人消え、彼らが死んだのだと分かっても何も感じなくなって『未来』なんて言葉を考えた事もなかった。
 もし、最初の仕事があの人の暗殺でなかったら。
 もし、あの仕事が成功していたら。
 いやそもそも、もし、あの仕事に選ばれたのが自分でなかったのなら。
 仮定なんて意味はないと分かっていても、ボーセリングの犬として希望や未来なんて言葉を知らずに生きていただろうと考える。
 全ては偶然と幸運がちょっとばかりカリンに微笑んでくれただけの結果だ。

「すみ……ません」

 思わず呟いて、カリンの瞳からは涙がこぼれた。
 エリーダは笑う。

「謝らないでよ。その代わり……幸せになってね。貴女の仕える男は世間一般で言う幸せなんてくれそうにないけど、それでも貴女が犬であった頃より幸せに生きられたとそう感じてくれればいいの」

 言って彼女は少し寂しそうに笑うと、そっと立ち上がって部屋を出て行った。



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