黒 の 主 〜首都と出会いの章〜





  【5】



「ふん、あたしとしちゃ、もう少しあのクソ親父から搾り取ってからでもいいとは思うけどねぇ」

 薄暗い部屋の中でもさらに暗い部屋の奥、しわがれた女の声が耳障りに高い笑い声とともに響いた。

「まぁ、あの親父にはまだ利用価値はあるが……生憎そろそろ限界だろ、俺も、あの親父もな」

 セイネリアが答えれば、へぇ、と声の調子が変わった返事が返されて、相手が少しだけ身を乗り出してきたのが分かる。

「それはつまり、そろそろあのクソ貴族様も、あんたが怖くなってきたって事かねぇ」
「そうだな。まだ堂々とこちらを始末しようとまではしてこないが、このところよく俺の周りで事故が起こるんだ」

 その言葉尻は女のけたたましい笑い声でかき消される。まず大抵の人間が耳を塞いで顔を顰めたくなるその声に、けれどもセイネリアはまるで気にした様子もなく、目の前のグラスに手を伸ばした。
 女はひとしきり大声で笑った後、その笑いのままのやけに陽気とも言えるヘンに明るい声で話を続けた。

「ま、あのクソ野郎も、そこまで馬鹿じゃなかったってぇ事かねぇ。今までさんざん得意になってあんたを従えてる気でいたんだろうけど、やっとあんたがおとなしく飼われてる犬じゃないって事に気づいたのかね」
「……そんなところだな」

 女の言葉をあまり聞いているようにも見えない態度で、セイネリアはグラスの中に揺れる、自分の瞳の色のような琥珀の液体を飲み干した。まだ若い彼が飲むには強過ぎる酒なのだが、それについて彼にとやかく言うような人間はまずいない。娼館育ちのセイネリアが酒を覚えたのはかなり早く、元々強い体質なせいもあって今では大抵の者との飲み比べでもまず負ける事はない。尤も、その大抵の人間は、セイネリアの長身とその威圧感の所為で、彼がまさかまだ二十歳になっていないとは思ってはいないというのがあるのだが。
 喉の熱さを愉しみながら、セイネリアは女の顔を見ずに暗い部屋を眺めてグラスを置いた。

「向こうが手を切りたがってるなら丁度いいさ。そろそろいい頃合だ、あの親父には年寄りらしく隠居してもらおう」

 未だに喉を揺らしていた、女の笑い声がそこで止まる。

「言うじゃないか、若造が」

 その声からは先程までの異様な陽気さは抜けていて、しわがれた老人の、けれどもその生きた年月だけではない威厳を感じさせた。

「あの男の器はここまでだ。今があの男の頂点さ。あんただってそう思ってるんだろ?」

 セイネリアは言いながら、そこでようやく老女の方へ顔を向けた。

「ふん……それで、お前さんはあの男以上の器だって言うのかい?」

 老女の声は不気味な程に落ち着き払い、ねっとりとしたヘビの目のような威圧感を纏ってセイネリアに問い掛ける。
 それにセイネリアは笑って返す。

「そうでなかったら、数日後には死体になってる、楽しみにしててくれ」

 そうすれば、再び女は笑って、笑い声というよりも喉が引きつるような音を立てた。

「相変わらず度胸と自信だけはあるねぇ、坊や。だから私しゃお前さんが好きなのさ」

 機嫌よく笑う老女もまた、自分の分のグラスを飲み干し、部屋の入り口にいる女に顎で指示を出した。それからほぼ待つ事なく出された二人分のグラスを前にして、向かい合った老女と黒髪の青年は、目線だけを交わして同時にグラスを持ち上げた。

「少なくとも、あんたがここへ出入りを許してくれた分の期待には応えたいと思ってるよ」

 言って、セイネリアがグラスに口をつければ、老女もグラスに口をつける。

「あぁ、そうさ。このワラント様が見込んだんだからねぇ、あんたはこの程度で終ってもらっちゃ困るよ」

 グラスを置き、組んだ手の上に顎を乗せた老女は、グラスを傾けて喉を揺らす青年を見つめる。

「それじゃぁ、土産代わりに、この婆の話相手になってくれた礼も兼ねて、今日は少し面白い話を教えてあげようかねぇ……」

 そういうと、ワラントと呼ばれる、この界隈の情報屋の元締めである女は、セイネリアに彼の主であるシェリザ卿のある話を伝えた。






 クリュースの首都であるセニエティは、国内でも多くの人が集まっているだけあって、その周囲もよく拓かれており、特に首都より少し西に位置するリシェの街までは、田園風景とはいえ民家が途絶えることはない。
 北は険しい山々が自然の城壁となって連なり、東は北よりに大神殿の所有地があるため民家はまばらではあるが、それでもコーダ山の麓までは畑として拓かれている。そして南は、門を出てすぐは森があるものの、それを抜ければ小さい村や、時には大きな街が点在するどこまでも続く平地が広がっている。
 領地を持つ貴族達は自分の領地である南以降の街に住んでいる者が多いが、領地を持たない貴族達のほとんどは首都に集まっている。その中でも首都に住居を構えず郊外の村や街に住居を構える連中は、基本は住んでいる地方の領主の知人や親類になるのだが、そうでもなくそれなりの財があっても地方にこもっている者達はえてして変わり者扱いされる事が多かった。

 サエゼリ・ナク・クロッセス・ボード・ナスロウ。首都からは馬では一日で行き来出来る距離とはいえ辺鄙な場所に屋敷を持つこの貴族の場合は、完全に変わり者と呼ばれる方の人間だった。
 彼もかつては首都で騎士団勤めの身だったのだが、引退した後は首都から少し離れた森を一つ手に入れ、そこへ屋敷をたてて引きこもってしまった。
 別に貴族が一人田舎に引きこもろうと普通ならどうという事もないのだが、この人物がかつての騎士団の英雄とも呼ばれる有名人で、今でも騎士団の方に関して相当の発言権を持っているとなると話は別だった。田舎とはいっても、首都からくるのにそこまでかからない事も却って話をややこしくしていた。引きこもるなら完全に引きこもって、全く口だしできないところまでいってくれればいいのに、というのがそもそも彼が厭われる理由だろう。

 セイネリアが今回、形式上の主であるシェリザ卿から言われたのは、この男を殺す事であった。

 ただし、いくらシェリザ卿の下についているからといってもセイネリアは裏工作の駒ではない。多少の脅し程度は引き受けてやっても、暗殺などという完全な汚れ仕事は契約外だ。だから、命令がただの暗殺であるならセイネリアは引き受ける気はなかったし、実際一度は断っていた。
 それがこうしてその人物の元へ向かっているのは、目的は殺す事でも暗殺ではないという事と、目的の人物が特別にセイネリアの興味を引いた理由があったからだった。




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