黒 の 主 〜首都と出会いの章〜





  【39】



 娼館というのは薄暗いというのが常識ではある。それはこの商売にやましい部分があるというのもあるが、客も娼婦も互いの顔をあまりよく見えないようにしているという理由もあった。もう娼婦としての仕事をする事もない情報屋の元締めであるこの老女の場合、人と会う部屋は表立って言えない交渉の為であるからやはり部屋は暗く、顔はよく見えないようになっていた。

「ふん、上手くやったじゃないか、坊や」

 久しぶりにあった『ワラント婆様』と娼婦達から呼ばれるこの街で一番大きな情報屋のネットワークを束ねる老女は、セイネリアの顔を見た途端に嬉しそうに皺だらけの顔に更に皺を増やした。

「上手くは行ったが、一年も掛かった」
「いいじゃないか、無駄な一年じゃなかったんだろ?」
「確かに、有意義な一年だったな」
「聞いたよ、ナスロウ家の代理後継者なんて随分偉くなったモンだねぇ」
「所詮代理だ、俺が貴族になった訳じゃない」
「なれたのに断ったんだろ、それも聞いてるさね」

 セイネリアがそれに笑みで返せば、老女は喉を引き攣らせるような笑い声を上げる。セイネリアは自分のグラスの中身を呷ってから、テーブルに肘をのせるとその手に顎を乗せた。

 ボーセリング卿と契約を交わした事で、セイネリアは笑えるくらいあっさりとシェリザ卿との契約を切って自由の身となる事が出来た。疑い深いあの貴族を安心させる為いくつかの条件を飲む必要はあったが、それはセイネリアにとって然程問題となる事ではなかった。
 そうして今日、身軽な身となって初めて、こうして堂々とセイネリア個人としてこの世話になった老女に挨拶に来た、という訳だ。

「これで少しはあんたの期待に応えられたならいいんだが」

 老女はまた、ふん、と鼻息荒く息をついてから笑みに歪めた唇を開く。

「そうだね、期待通りさ。いや、期待以上かねぇ。ともかく、これであんたも晴れて自由の身という奴じゃないか」
「そうだな……そうなればいいが」

 呟いて、意味ありげに笑えば、老女も笑みで返す。

「まぁ少なくとも、シェリザ卿ももう表立ってあんたを狙う訳にはいかないだろ。なにせ協力者といっても守られてる手前文句がいえなかったあの馬鹿貴族様は、今じゃボーセリング卿の庇護下じゃないと外も歩けない状態で完全に下僕さ」

 そもそも一年前、セイネリアがまだシェリザ卿のもとにいた時代から、既に調子に乗り過ぎたシェリザ卿は回りの貴族から反感を買いまくってボーセリング卿に守って欲しいと縋りついたのだ。それをこの老女から聞いていたセイネリアは、自分が自由になるにはボーセリング卿の方と交渉したほうが良いと考えた。だからセイネリアとしてもボーセリング卿の依頼でナスロウ卿のもとへいけという命令は、実は願ったり叶ったりの話ではあったのだ。
 セイネリアがナスロウ卿の従者となっている間、ここぞとばかりに勝負を迫って来た貴族達をシェリザ卿は悉く断っていたという。そんな都合のいいマネなど通常は許される筈がないのだが、それはボーセリング卿の力でどうにかして……だから今ではシェリザ卿は完全にボーセリング卿の駒の一つに成り下がっているらしい。

「ただまぁ、人を見下す立場に慣れた人間だからな……あぁいうのは一度自分の下だと思った人間に逆らわれたら許せないものさ」
「まぁ、そうだろうねぇ……ならどうするんだい?」
「それは当然……手を出してきたら後悔するのは向うの方になるだろうな」

 老女は笑う、酷く不快なけたたましい声を上げて。
 セイネリアはそれにも笑みを返すだけだったが、隣に座っていたカリンがびくりと震えた事で、老女はそこで口を閉じて、視線をまだ若い彼女に向けた。

「あぁすまないねぇ、驚かせてしまったかい。歳を取ってくると声もすっかりしわがれてしまってねぇ。おまけに悪くて恐い人間とばかり話してるモンだから、こちらもそれに対抗してどんどん怖くて不気味になってしまってねぇ」

 そう言って笑い掛けるこの界隈では知らぬ者はいない情報屋のボス、ワラントの瞳は、セイネリアに向ける目と違って優しく細められていた。カリンは僅かに怯えたようにセイネリアの傍に寄り気味になったが、それでも真っ直ぐ老女の顔を見て答えた。

「いえ……驚いただけで、怖くはあり……ません」

 そうすればワラントは益々笑ってカリンを見つめる。

「『犬』として育てられたにしちゃ随分いい目をしてるじゃないか」
「あぁ、将来有望だと思わないか?」

 実は今回、セイネリアがワラント婆と呼ばれるこの情報屋のボスの元に来たのは、報告だけではなくカリンを彼女に預ける為でもあった。
 なにせ自由の身といえば聞こえはいいが、今のセイネリアの立場はただの一冒険者以外の何ものでもない。住居もなければ仕事もまだ決まっていない、そんな状態でいくら僕になったといっても他人を連れて歩くのは面倒過ぎた。それに暗殺者として閉鎖された環境で育ってきたカリンに世間慣れさせる為にも、同性がたくさんいる彼女のもとに暫く置いた方がいいと思ったのもある。……勿論、カリンにこれからさせる予定の仕事内容を考えてここに置くことにしたというのもある。どちらにしろカリンには『言われたことをする』だけではない生活を少しさせるべきだとセイネリアは考えた。

「まぁ現時点でもあんたの護衛には十分使えるぞ、なにせ元『ボーセリングの犬』だからな、その手の仕事ならよく仕込まれてる筈だ」

 セイネリアとしてもワラントに厄介者を一方的に押し付けたというつもりはなかった。いくらまだ実践経験はほぼないと言っても、ボーセリングの犬として教育を受けているカリンなら能力的には十分使えるレベルだろう。ワラントのような人間にとっては暗殺者の脅威が付きまとうのは常であり、その対策には同じ暗殺者あがりの人間が適任であるのは当然の事だ。

「あぁそうさせて貰うよ、確かに……お前さんは人を見る目もある」
「褒められ過ぎても気味が悪いな」

 老女はそこでまた笑う。今度は恐らくカリンに気を使ってか声まで上げずに。

「しかも運もいい。……ナスロウのジィさんに鍛えてもらったんなら、あんたが強くなれたのは間違いないだろうしねぇ……本当に、お前さんの将来が楽しみさ」

 老人特有の遠くを見つめる瞳にセイネリアは苦笑する。まったく老人というものは……とこんなところでも思ってしまうのは仕方ない。

「そんな待たずあんたが見込み通りだったと言うくらいにはなってやるさ。少なくともあんたがくたばる前にはな」
「あぁそうしてくれ。楽しみにしてるよ、坊や」

 そういって笑い掛ける老女の顔は、どこか自分を娼館から送り出した娼婦の顔に似ていた。



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