黒 の 主 〜首都と出会いの章〜





  【40】



 古くからある大きな娼館は独自の情報網を持っていて、だから彼らとは出来るだけ敵対せずに利用し合うようにするべきだ――ボーセリングの犬として教育を受けていた時に、カリンはそう教わっていた。
 とはいえ娼館がどういう場所か分っていてもそこへ来た事などある筈がなく、ついでに言えばこんなに女性ばかりがいる場所も初めてだったので、今日からここで暮らす、という事になってカリンはどうすればいいのかまったくわからず困惑した。

「うーん、やっぱり若い子はいいわねー肌がすべすべ」
「綺麗な黒髪ね〜あの男の好みってこういう子だったのかしら」
「やーん細い腰〜、羨ましいわぁ」

 そう言って娼婦達に囲まれて頬を摺り寄せられたり抱きつかれたりされた時には思わず硬直してしまったのものの、かろうじて主の『仲良くやれ』と言われた言葉を思い出して、カリンは相手を攻撃しそうになったのはどうにか堪えた。

「ほらほら、お嬢ちゃんが可愛いからって不用意に触るんじゃないよ、それで怪我しても知らないからね。さぁ、分ったら部屋に戻りな、紹介はしまいだよ」

 ワラントが言えば口をそろえて娼婦達は『はぁい』と返事をし、くっついていた者達も離れて、バイバイ、と次々手を振って去っていく。正直それにはかなり安堵したが、今まで自分がいたところとはまったく違う世界の場所に一人置かれてこれで緊張するなというのは無理な話だ。

「まぁこれからもあの子達はあんたにちょっかい出してくると思うけど適当に流しておけばいいからね。あんまりしつこいようなら、怪我させなきゃ多少脅してやったって構わないよ。皆、あんたみたいな娘が珍しくて構いたいだけだからね」
「珍しいの……ですか? 私……若い、女が?」

 カリンが聞き返せば、ワラントは柔らかく笑う。

「若い娘(こ)が珍しいんじゃないさ、あんたみたいな、さ」
「私みたい?」
「そう、全部を諦めて何も持っていない私らと違ってね、まだ未来ってやつを持ってるあんたが羨ましくて関わりたくなるのさ」

 それはおかしい、とカリンは思う。彼女には物ごころついた時から何もなかった。与えられた事をひたすらこなす事だけが生きる意味だった。出来なかったら死ぬしかない。運が悪かったら死ぬしかない。そんな自分に未来なんてものがあるとは思えなかった。

「私には最初から未来などありません。私は所詮従うだけしか出来ない『犬』です」

 ワラントはそこで目を閉じると静かに息を吐き出して、殊更ゆっくりと、妙に楽しそうな口調で言ってくる。

「そうさねぇ、でもあんたの今の主はあんたを『犬』にはさせないと思うよ」
「どういう意味ですか?」
「それは私にじゃなく、あんたの主に聞いてみればいいさ。ともかく、あんたはあの男を選んだ、その時点であんたは『犬』じゃない未来を選んだのさ」

 それでカリンも気が付く、確かに、主としてあの男を選んだのは、彼の下ならきっと『今の自分ではない自分』になれると思ったからだ。何も持たない、何も望まない自分に何かが手に入りそうな気がしたからだ。

「可愛いお嬢ちゃん、あんたはここでともかくいろいろ見ることさ。ここはあんたの知らない世界だ、だから何でも見て、それから見たものがどうしてそうなるのかを考えなさい。それがあの男がお前に望んでいる事さ」

 ワラントの声はどこまでも優しい。こんな風に優しく話し掛けられた事のないカリンには、それだけで妙に感情が高ぶるのを感じてしまう。

「……けれど主は、私に何も言ってくれませんでした」

 言うと同時に、カリンの瞳から涙が零れる。そこでカリンは自分がどうしてここまで不安だったのかその理由を理解した。初めての場所、知らない人々……それは確かに不安要素の一つであるが、今まで彼女がさせられてきた事に比べればそれだけでここまで不安になる事ではない。
 自分が不安なのはきっと、主に置いて行かれたからだ。来いと言われたのに知らない場所へ一人、ここでの役割を命令される事なくただ置いて行かれて不安だったのだ。まるでいらないと突き放されてしまったようで、だからこんなにも不安だったのだ。

 泣き出したカリンに向かって、ワラントが椅子に座ったまま手を広げる。
 おいで、と優しく言われてカリンは自然と彼女の腕の中に飛び込んだ。

「まぁあの男は言葉が足りない事は確かだねぇ」

 笑いながら、情報屋を束ねる老女はカリンを抱きしめ、その頭を撫でてくれる。

「あの男が何も言わないのは、ここでやる事は自分で考えろとそういう事さ。主であるあの男の為、あんたがここでどうすればいいのかそれを考えて実行しろという事なんだがね……その一言くらいは言っておきゃいいのに……ホントにあの男はヘタに頭がいい所為か、他人にも厳しいからねぇ」

 気付いた時にはボーセリング卿の訓練施設にいたカリンには、こうして優しく抱きしめて貰った記憶もなければ頭を撫でられた事もない。だからその優し過ぎる感触が余りにも心地良くて、安心出来て……カリンは生まれて初めて嗚咽を漏らして、老女の腕の中で思い切り泣いた。



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