黒 の 主 〜首都と出会いの章〜





  【35】



 次の日、カリンを連れて普通に朝の中庭に立っていたセイネリアを見たシェリザ卿の顔は相当の見物ではあった。狼狽えた彼はセイネリアから挨拶をされた後、どうにか返事を返した後にそそくさと朝の散歩から屋敷へと逆戻りした。おそらくボーセリング卿に『話が違う』と抗議にでも行ったのだろうと思うが、向うは既に分っていてどうするか考えているところだろう。

「さて、後はここであのタヌキ親父に俺に付いた方が得だと思わせればいいだけだが……」

 考え込むように口に手を当てると、カリンが不安そうな顔をしたのでセイネリアは笑って見せる。

「大丈夫だ、あの腰抜け親父にそろそろ利用価値が無い事など、お前の元主なら分かっているだろう」

 そうして予想通り、朝食前にシェリザ卿に呼び出されればそこにはボーセリング卿もいて、セイネリアはその顔を見た途端に笑顔で言ったのだ。

「丁度良かった、ボーセリング卿、あんたとは直接報酬の件で話がある」

 それに向うも笑顔で返事を返してきた後、ただし、と続けてセイネリアは『シェリザ卿のいないところで』と条件をつけた。

「ふざけるな、お前は自分の立場というものを分っているのかっ」

 当然ながらシェリザ卿は怒りだしたが、セイネリアがそれを無視してボーセリング卿の顔を見ていれば、暗殺者を束ねる男はその笑みを崩さずに再び了承の返事を返した。そうなればシェリザ卿も黙るしかない。この二人の力関係的にそれは想定内の事である。

「さて、邪魔者がいなくなったところで交渉といこうじゃないか」

 どかりと、わざと偉そうにボーセリング卿の前の椅子に腰かけると、そこで初めて紳士を装っていた腹黒親父の顔から人の良さそうな笑みが消えた。代わりにどこまでも感情のない目と、口元だけにこちらを小ばかにしたような嫌味な笑みが浮かぶ。

「交渉、かね。交渉というなら、君は何を出して、私に何をさせたいのだろう」

 シェリザ卿が出て行った部屋には、現在セイネリアとボーセリング卿、それにセイネリアの後ろにカリンと、ボーセリング卿の後ろに彼の、昨日もいた護衛の飼い犬が一人。カリンがセイネリアの傍にいる事にボーセリング卿は何か言いたそうな視線をチラチラと投げてはきていたが、あえてセイネリアは無視をした。今はまだ、彼女の事を言い出す段階じゃない。

「そうだな、あんたはワラントの婆さんを知ってるか?」

 その名を出せば、見た目だけなら紳士にみえる男の顔に僅かに緊張が走った。暗殺者集団の親玉が、裏街の情報屋のボスの名を知らない事はない筈だった。

「あぁ、名は知ってるよ、そういえば君はあの人のお気に入りでもあったかな」
「何、ただの客と娼婦さ。さてそれでだ、今回あんたから仕事を受ける時に報酬の件は書面で約束してもらったろ、あれは仕事の間、あの婆さんに預けてあったんだ」

 こちらを見下そうとしていた男の顔から、笑みが完全に消えた。
 人を利用する事だけには長けた頭のいい男には、それだけでこちらの言いたい事の半分程は理解出来たろう。

「別に報酬などどうでもいいが、あれは俺があんたから仕事を受けたという証拠にはなる。……なぁボーセリング卿、暗殺者の斡旋なんて仕事は信用第一だ、それで雇った人間を仕事が終わったら始末しようとした、なんて噂が広まったら今後の仕事がやりにくくなるんじゃないか? 特にあの婆さんがそれを言いだしたらかなりの情報屋はあんたにそっぽを向くんじゃないかな」

 笑って言いながら琥珀の瞳でただじっと相手の顔を見る。こういう時、人から獣のようだと言われたこの目を色を利用しない手はない。ただ流石にこの仕事を続けてきた男はまだその程度で崩れる事はなく、彼もまた笑って見せた。

「成程、君の交渉材料はソレかい。なら私が君を殺そうとしたという証拠は何を用意したのかね?」
「そうだな、眠り薬入りの酒や料理くらいはあるな……あんたは絶対何か入れてくると思ってたからな、昨日の食事も酒もとってある」
「食べなかったのかね? どうみても食べていたように見えていたが」
「食ったふりだけだ、なかなか演技はうまかったろ?」

 そう言ってセイネリアは懐から袋を取り出してみせる。それは一見なんの変哲もない小さな布袋に見えるが、冒険者なら大抵持っている空間魔法で拡張した見た目の数倍モノが入るという袋だ、通称冒険者の荷袋。昨夜は飲み食べしたふりをしてこっそり懐のそれに入れたり、食べた後に吐き出して入れたりして、実際セイネリアは何も飲み食いをしていなかった。

「成程、まんまと馬鹿なふりに騙されたという訳かな。だが残念だね、例え魔法使いが調べたとしてもそこから証拠と言い切れる程のものは出ないと思うよ」

 ボーセリング卿はそれには喉を震わせて笑った。まぁ毒殺を狙ってこなかった段階で残るような薬は使わなかっただろうと予想はしていた。だからこれは単に、こちらはその程度警戒する頭はあるのだと向うに伝えておいただけの事に過ぎない。ここまでのやりとりはただの茶番だという事くらい、ボーセリング卿もセイネリアの後ろに女がいる段階で分っている筈だった。

「まぁそうだな、だが証人がいる」



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