黒 の 主 〜首都と出会いの章〜 【34】 暗闇の中、背中越しに感じる殺気にセイネリアは薄く目を開く。こちらに殺気を感づかせる辺りはまだ未熟だなと思いつつも、音もなくするりと起き上がったのにはなかなかよく訓練されているじゃないかと口元だけで笑う。 ――だが恐らく、ここで失敗したらこの女もただの捨て駒になるだけか。 そうして女がナイフを構え、こちらに斬りかかってくると同時に、セイネリアは上掛けを跳ねあげて起き上がった。 「……っ」 失敗したのだと悟った女は一度ベッドから降りて身を引こうとする。だがそれを許さず、セイネリアは女のナイフを持った腕を掴むとそれをベッドに押し付けた。 「いっ……何故っ」 離せと泣き叫ばないのはなかなかいい。泣きそうな顔でもこちらを睨んできたのはもっといい。蹴ろうとしてきた足を体で押さえつけ、自然とセイネリアの顔には笑みが湧いた。 「仕掛けるなら、こちらに薬が本当に効いてるかどうかくらいは確かめろ」 言えば女は暴れるのを止めて無言でこちらを睨んでくる。黒い瞳には確かに怯えも見えたが、それでも女はこちらを睨む。女の黒髪と黒い瞳は闇に同化していて、その様もなかなかいいとセイネリアは思った、だから――。 「良いな、お前はなかなか面白い目をしている。嫌いな奴等の命令で、見知らぬ男に抱かれるのは悔しかったか」 恐らく、そういう役目の為に生娘のままだったろう女は、言われればカッと顔を赤くした。目からはとうとう涙が溢れてきたが、それでもこちらを睨もうとするその彼女にセイネリアは言う。 「ならば、選べ。お前に命じた奴等か、俺か。俺を選べば、お前は今後一切奴等に従わなくていい。だが代わりに俺に一生従わなくてならない。……どうせ従うだけの人生なら、主くらいは自分で選んでみろ」 そこで初めて、女の瞳に驚愕の色が混じる。それから彼女は顔に困惑を浮かべると、おそるおそると言った声で聞いて来た。 「どういう……事、ですか?」 セイネリアはじっと女の顔を見下ろし、笑みを浮かべる。 「もしお前が俺を主に選ぶというなら、あの腹黒親父からお前を買ってやる。交渉材料はあるし、あの親父は損得の計算が出来るからな、心配せずとも穏便にお前は俺のもとに来れるだろうよ。だがあの親父のもとに留まりたいというのなら止めはしない、ただお前の仕事は失敗したからな、どちらにしろこちらが自由になる為の交渉材料には使わせてもらう事になる」 自分の純潔を賭けた仕事を失敗したのだ、それで即処分される事はなくてもこの女は以後アカネと変わらない扱いになるのだろう。ボーセリング卿にとって『犬』はまだたくさんいる、惜しいなどとは思わない。……いや逆に、まだ『犬』になり切れていないこの目に気付いて、惜しい、などと思われたら、あのクソ親父の玩具にされるだけかとセイネリアは思う。 「本当に、あそこに帰らなくていいの……です、か?」 暫く放心していただけの女は、言うと同時に体の下で僅かに身じろぎした。見れば女の顔には僅かに希望の色が浮かんでいて、おそらく彼女は自分を選ぶだろうと思ったセイネリアは更に唇の笑みを深くして答えた。 「お前が俺と来る事を望むならな」 女は再び黒い瞳を大きく見開き、そこから一筋涙を流した。 「どうする? 俺を選ぶか?」 そうして、こくりと頷いた女を見て、セイネリアは彼女の戒めを解いて身を起こした。わざとセイネリアが背を向けても、女はベッドに寝転がったまま起きなかった。だからセイネリアは振り向いて、彼女に手を伸ばした。 「お前、名はあるか? あるなら教えろ、ないなら呼んで欲しい名でいい」 女はセイネリアのその手を取って答えた。 「……カリン」 セイネリアは手を引いて彼女を起き上がらせる。 「ならカリン、今からお前は俺のものだ。俺の手足となり道具となって俺に尽くせ」 そうして抱き寄せてやれば、女はこちらに縋りつくように抱きついてくる。 その手にはもうナイフはなく、ただ僅かに顔を押し付けられたこちらの胸には温かい濡れた感触を感じた。 「はい、私は今から貴方の僕です」 --------------------------------------------- |