黒 の 主 〜始まりの街と森の章〜





  【11】



 男が易々と持ち上げていた大斧。ただ実際のその斧の重さがとんでもないものだというくらい見ていただけでも簡単に予想はつく。
 単純な筋力についていえば、セイネリアも多少は自信があった。同じ年頃の子供――少なくとも娼館の周囲にいた子供の中では、セイネリアに腕力でかなうものはいなかった。それは女の格好を馬鹿にした連中を黙らせる為に、進んで力仕事を手伝って力をつけた故である。
 とはいっても所詮歳の割にはという程度で、大人の基準で考えれば『力がある』というレベルにはほど遠いという自覚はある。
 この大斧は、普通の成人男子であっても持ち上げるのは相当に厳しいシロモノだろう。男の条件はどう考えても無茶だ。けれども、ここまで来た事を無駄にする気はセイネリアにはなかった。
 近くで見れば、改めて斧の大きさが実感できる。鉄の刃の厚みからすれば自分が持った事のある斧の倍どころの重さでは済まない。セイネリアはまずは斧の柄、男が持っていた布を巻いただけの持ち手を掴む。大柄な男の手に合わせたその部分は太く、持ちやすいように男の掴みになじんだ形はまったくセイネリアの手と噛み合わない。思わず、所詮ガキの手だと、自分と男の手の大きさの差に笑いがでてくる。
 斧の刃は切り株に斜めに食い込み、単純にこの重量を持ち上げるだけではなく、ここから抜く事がそもそも無理だろうと言う気にさせる。

 ――だがそれは、馬鹿正直にやるなら、という話だ。

 セイネリアは掴んだ柄を、刃が刺さっている方とは逆側へと押した。つまり、刃を引っこ抜こうとするのではなく、刃の上部だけが刺さるように斧を立てようとした。
 柄の先端を持ち、斜めに刺さった台に対して垂直方面に押していけば、刺さった刃部分は刃の中頃から上へとだんだん抜けていく。 

「なるほどね」

 セイネリアには、男の感心の声など聞こえていない。
 いくら楽な方法で抜こうとはしていても、そもそも元の斧の重量がありすぎて柄を押していくだけでもかなりの力を必要とする。更にいえば斧が台に刺さっている間はまだいいが、抜けた時には一気に重量がこちらへやってくる事が分かっている。
 その瞬間を覚悟して、ゆっくり、ゆっくりとセイネリアは斧の柄を押す。
 そして――柄がもうすぐ台に対して垂直になろうとした、その時。台の切り株の刺さっている部分が重量に負けて割れる。ピキリと高い音とともに抉られた木片が飛び、今まで台と刃が支えていた斧の重量が腕にずしりと襲いかかる。
 それでもそれは予想内の出来事である。セイネリアは歯を食いしばり、腕というよりも体全体で斧の重量を受け止めた。
 けれどまだ。まだこれでは条件は全く果たされていない。
 セイネリアは、一度は受け止めて支えた柄を、今度はゆっくりと下ろしていく。そうして一度、斧から手を離した。
 大斧は今、刺さっていた台の上に置かれた状態になっていた。補足をするなら、斧の刃部分が台の上に置かれた状態で、柄は台から飛び出している。
 セイネリアは一度、離した手を握って、開いて、自分の握力を確認した。

 息を整える。鼓動を押さえる。そうして、覚悟を決める。

 柄を引っ張って、刃がぎりぎり台から落ちそうなところまで持っていく。そして重みの傾きが台の上の刃から台の下にある部分に切り替わる瞬間、柄の持ち手部分だけを地面につけ、刃を台から持ち上げ、斧を台に立て掛けているような状態にする。丁度切り株の角を重心としててこの要領で持ち上げた刃は、だがまだ刃が台の上に触れていた。

 ここから先は、力にしか頼れない。

 セイネリアは足で地面についた柄を踏んで固定し、今度はそこを重心として柄の先端、刃を貫いて突き出している部分に手を掛けると、刃部分を台から持ち上げる。

「ぐ、ぅ、あぁぁぁぁぁぁっ」

 台を利用して多少上げてあった分完全に倒れた状態から持ち上げるのに比べて楽とはいえ、斧の重さは子供がもてるようなものでは到底なかった。それでもただ持ち上げようとした時の可能性が0ならば、今は多少可能性がある。

 持ち手を、地面へと埋め込む程に強く足で踏みしめる。
 背中で神経がピリピリと悲鳴をあげる。
 腕の毛細血管がちりちりと不快な感触を伝えてくる。
 頭に血流が上ってきて、どくどくという音が大きくなる代わり、外界の音が遠くなる。
 歯をかみしめて、セイネリアは力が抜けて感覚の消えていく掌を握りしめてただ引っ張り上げた。

「あがったよ。手ぇ離せ、十分だ」

 耳元で聞こえた声とともに、唐突に体中にかかっていた負荷が消えた。
 視界に映る斧の刃の背に、自分の倍以上に太い男の腕が見えた。力の反動で気の抜けた体を背後にいる男の腕が支え、笑い声の振動を背に当てられた男の胸の感触で感じる。

「はっ、確かに刃が完全に持ち上がるって条件は満たしてる。柄毎持ち上げろとはいっちゃいねぇからな。成る程馬鹿じぇねぇな、本当におもしれぇ」

 男に支えられる無様な姿は気にいらないが、安堵したセイネリアの体は動く事を拒絶していた。だから、今ここで出来る反撃といえば言葉程度というのが情けない。

「あんたは……最初から俺を認める気なんかなかったんだろ」
「あぁ、生意気で物騒なガキの鼻っぱしらをへし折って追い返す口実だったんだがな」

 男はまだ笑っている。
 ようやく整ってきた息と鼓動を確認して、セイネリアは男の腕を追いやるように立ち上がった。

「ともかく、これで条件はクリアだ」

 男は笑い声を止めて口元だけの笑みをうかべ、セイネリアの目をじっと見据える。

「あぁ、約束だしな、お前が強くなる手伝いはしてやる。……だが、本当に強くなれるかはお前次第だ」

 そんな事は言われなくてもセイネリアはとうに承知している。だから答えに迷いはない。

「分かっている」

 男はまた、声をあげて笑う。
 笑いながら立ち上がり、あの大斧を片手で持ち上げ、そのまま家の傍の地面へと投げた。
 あまりにも違いすぎる男と自分の力の差をまざまざと見せつけられれば、分かっていても腹がたつ。せめて、あの大斧を普通に使えるようになること――当面の目的はあれにしようとセイネリアは思う。
 男はセイネリアについてくるように言うと、家に向かって歩きだした。
 だが、前を歩いていた男は、家の扉を開ける前、突然足を止めて振り返った。

「あぁ、一つ聞いていいか? 何故そんな強くなりたい?」

 セイネリアは見下ろしてくる男の黒い瞳をまっすぐに見あげ、考える間もなく口を開いた。

「俺には何もないからだ。何もない俺が、自分の価値を掴み取るために力が欲しい。だから、強くなりたい」

 男はすぐには何も返さなかった。
 ただじっと、セイネリアの言葉の真意を探るように目を見つめ、それから背を向ける。

「なるほどな……まぁいい」

 だが、その言葉を聞いた直後、あるいは言葉と同時だったか。
 背を向けたと思っていた男が唐突に振り返り、黙って立っていたセイネリアの腹にその拳をふるう。おそらく、男の力を考えれば手加減していたろうそれは、だがまだ少年のセイネリアの体を文字通りふっとばすには十分過ぎた。
 痛みよりも先に息が止まる、視界がぶれる、体中の感覚が消える。
 地面に倒れ込んでから、呼吸が回復するまで。意識が遠のく感覚に、セイネリアは死を予感した。
 だが、一度歯を噛みしめてから空気を求めて大きく口を開けば、止まっていた肺に空気が流れ込み、セイネリアは激しく咳き込む。
 それをきっかけに、衝撃に固まっていた身体の各所が機能を思い出す。
 感覚が戻ってくれば腹全体に鈍い痛みがやってくる。それから吐き気。内臓が悲鳴を上げて、激しく動き回っているのが分かる。

「どうだ、痛いか、苦しいか?」

 セイネリアが真に強いと思った男の声には抑揚がない。

「そんでも泣いたりはしねぇか。大したもんだ」

 笑う彼の声にも気配にも、殺気はない。

「そうして声も出さずに痛みを我慢できるお前は、確かに強くなれるだろうよ。だがな、お前はまだ心の痛みって奴を知らねぇ。いいか、体が感じる痛みなんてのは心の痛みに比べりゃなんて事はねぇ。例え死ぬくらいの、どれだけの痛みであってもだ」

 やっと整ってきた息の中、腹の痛みを耐えてセイネリアは顔を上げた。
 アガネルの顔に表情はなく、だが瞳だけはまるで憎むような威圧を込めてセイネリアを見下ろしていた。まだ声が出せないセイネリアは、這いつくばったまま片手で腹を押さえ、もう片手で倒れた地面に指を立て、起き上がろうと力を入れる。

「どんだけ強くなっても心の痛みを知らないままなら、いつかお前はぽっきり折れる。何も感じないから何も怖くないなんてのはガキの理論だ、恐れろ、お前が耐えられない痛みを知る時が必ずくる」

 それからアガネルはまた背を向けて、今度こそ家の戸を開けた。
 片足を建物の中に入れて、アガネルの抑揚のない声が最後に掛けられる。

「立てよ、強くなりたいなら自力で起き上がってついてこい。……一度引き受けたからにはちゃんと付き合ってやるよ」

 そうして、家の中に入っていった男の背中に、殆ど音にならない声でセイネリアは呟いた。

「心の痛みなら……麻痺する程度には知ってるさ」




 ――それが、今から4年前の事だった。


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12歳のセイネリアのお話はここまで。次回は最後の文通りここから四年後。

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