黒 の 主 〜騎士団の章・一〜





  【44】



――まてまてまて、全力? 全力だと? それでステバンとのあの戦いは全力ではないというのか? 奴の全力とはどれ程になるんだ? というかあれ以上の力を出せばそもそも怪我どころでは済まないだろ、あの目はどうみても狂人だ、絶対にこちらをなぶり殺すつもりに違いないっ。

 考えれば今更に体の震えが益々ひどくなる。あんな狂人に武器など持たせるな、檻にでも入れておけ――なんて頭の中で騒いだところで、次あの男のと戦うのは自分なのだという現実はどうにも出来ない。
 ところがそこで、更にエフィロットは意外な声に驚く事になる。ただし今度の声はエフィロットにとって、あの男とは正反対の感情を与えてくれる相手であったが。

「エフィロット様、あぁ良かったまだいらっしゃって」

 自分を心配する可憐な令嬢の姿を見て、そこでエフィロットは反射的に背筋を伸ばした。好きな女性に震える姿を見せる訳にはいかないと即虚勢を張れるところは彼の凄いところかもしれない。

「次の試合の前に、どうしてもお渡ししたいモノがあって……良かった、お会い出来て」
「え、えぇ、そうですか、何でしょう?」

 ゆっくり歩いて来る彼女のもとに、エフィロットは急いで駆け寄った。
 エフィロットが目の前までくると、可憐な令嬢は安心したように笑ってそっと手を差し出してくる。勿論彼は手を出してそれを受け取った。

「これは……」
「貴方が無事でありますように、お守り代わりに持っていてくださいませんか?」

 エフィロットは受け取ったものをそっと握った。それは小さなレースの布、彼女のハンカチだった。

「あ、あ、ありがとうございます。必ず貴女のために勝利を掴んで見せましょう」

 と、感激した勢いで言ってしまってから、エフィロットははたと正気に返った。そうして思った、どうしよう、と。まてあれとマトモにやって勝てるのか? いやそれ以前にあんなのと戦ったら殺されるぞと、考えれば考えるだけ冷や汗が出てくる。
 けれど、そうして考えたのはほんの一瞬、その直後に彼は不穏な音を感じて咄嗟に目の前の彼女を抱きしめた。

「あぶないっ」

 言うと同時に彼らの傍に立て掛けてあった数本のポールのようなものが崩れた。幸い、ぎりぎりのところで直撃はなかったが、彼女を抱きしめて座り込んだ状態でエフィロットは横に転がるそれらを見てぞっとする。

「エフィロット様、なにが……」

 震えるエーレン嬢の声に、そこで彼は今の体勢に気づいて慌てて彼女から手を離した。

「あぁああ、失礼っ、咄嗟の事だったので、すみませんっ」

 わたわたと焦ってどうしようかと意味不明のゼスチャーをしてしまったエフィロットだったが、顔を上げた彼女は何故か泣きそうな顔でこちらに訴えかけてきた。

「大丈夫ですかエフィロット様、お怪我はありませんか? どうしましょう、もしエフィロット様が怪我をされて試合に出られなくなったら……」

 そうすれば、後ろに控えていた筈のエーレン嬢の侍女がやってきて、彼女もまた真剣な顔でこちらを見てくる。

「お嬢様をお守りくださってありがとうざいます。私が傍にいながらなんてこと……エフィロット様は大丈夫でございますか? どこかお怪我などしていませんでしょうか? エフィロット様はこれから大事な試合があるというのになんということでしょう」
「そうですわ、私のせいでエフィロット様が試合に出られなくなったらどうしましょう」

 言って顔を覆うエーレン嬢の姿を見ていて最初はあっけにとられていたエフィロットだったが、その時彼の頭の中へ、まさに天啓のような素晴らしい知恵が舞い降りてきたのだった。

「はは、この通り大丈夫で……む、痛ッ」

 笑って立ち上がろうとしてから、彼は足を押さえて蹲った。




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