黒 の 主 〜騎士団の章・一〜 【43】 エフィロット・クォール・ソン・ガルシェは焦っていた。前の試合を見てまず思った事は『こんな化け物の話は聞いていない』であって次に思った事は『誰かあいつに調子に乗り過ぎたらどんな目に合うかくらい言ってあるのか』だった。 だから次の試合まで時間が出来たのを幸いと、取り巻き連中を呼びつけて彼は現状について確認した。 そうして分かった事と言えば……誰もがエフィロット自身とそう変わらない認識しかないという事で、早い話が皆この現状に困惑していて、誰もあの男に脅しの一言も掛けてはいないという事だった。 ――だが、こちらで言っていなくても騎士団としては当然注意はしてある筈だ。 騎士団としてもただの内輪の競技会で問題を起こされては困る筈だった。だから最低限の注意くらいはしてある筈だとエフィロットはそう思った。 勿論この時点で彼は自分の実力だけでここまで勝ち上がっていたと信じて疑っていなかったから、既に他の連中には彼に勝つなという話が回っている事も、そしてセイネリアにだけは何者かによって意図的にその話がいっていない事も知りはしなかった。 ――いくら獣のような男といっても保身をまったく考えない程馬鹿ではないだろう。この俺にヘタな事をすればどうなるかくらい分かっている筈だ。 そうは考えてもそれで安心できる筈がない。なにせ相手は化け物のように野蛮で残忍な男だ。もしかしたら頭は悪いというよりも狂っているのかもしれない。 せめてどれくらいの狂いっぷりなのか……貴族相手に怪我をさせては不味いと認識する程度の頭はあるかどうか、それくらい確認しておければ。 考え込んでいたエフィロットは、そこで聞こえた声に飛び上がる事になった。 「おや、ガルシェ様ではないですか」 話題にしていた当人の声に、エフィロットだけではなく周りにいた連中も驚いて文字通り飛び上がった。 まさかここで、いくらなんでもそれは出来過ぎだ……とは思っても、彼らがいたのは控室のある建物の横だったのでまったく人目につかない場所という程ではなかった。控室に来た者なら誰かいるくらいには普通に分かるから、気になって来てみたと言われたら別に不審に思う事ではない。……まぁ実際はセイネリアがわざわざ彼らを探していたからこそ見つかったのだが、それは彼らが知る事ではなかった。 ともかく、セイネリアの話をしていたらそのセイネリア本人が現れた事でエフィロットの頭は瞬間パニックに陥った。 「あ、あぁ……」 歩いてくるやたら背の高い男に、エフィロットは返事というより開けたままの口からどうにかそれだけ声を出した。 遠くで見てもでかいと思ったが、近くに歩いてくるにつれその大きさを更に実感する。この高さから剣を簡単にへし曲げる程の力で振り下ろされたらと考えたらそれだけで周りの空気が冷えた気がして、思わず彼はやってくる男から視線を外した。 「貴方と試合が出来るとは光栄です。ガルシェ様」 だが割合穏やかな声でそう言われたから、エフィロットはそこで少し安堵する。 これは思ったよりはマトモな相手らしい、ならば貴族に危害を加える事の意味くらいは分かっている筈――なんて思って、なら貴族らしく威厳を見せてやろうとその顔を見上げて、エフィロットは青ざめた。 「次の試合はやっと全力で戦えると楽しみにしております。なにせここまでの対戦相手は皆、体がヤワすぎてすぐ怪我をして試合が終わりになってしまったので。高名なガルシェ様なら私が全力を出すに相応しい相手だと思っております」 見上げた男の体は大きく、黒い前髪の影から覗く金茶色に光る瞳はまさに獲物を見る肉食獣のような狂気がある。それがにぃっと嬉しそうに細められてこちらを見れば、正直歯が震えて声など出せる状況ではなく、下肢など完全に力が入らなくてカクカク震えてまったく動けなかった。 そこでエフィロットがへたりこんで座ってしまったり、漏らしたりしなかった事だけは、無条件に称賛されるべき事だったろう。 「それでは、良い試合にいたしましょう」 セイネリアという男は、それで頭を下げると去っていく。その姿が消えるまで、エフィロットは相手に返事どころか声一つ上げる事も出来なかった。 だが、彼がいなくなって暫くすればゆっくりと頭が動き出す。相手の言葉を今更ながら頭で反芻して、その意味を理解していけば……当然ながら次に訪れるのは更なるパニックだった。 --------------------------------------------- |