黒 の 主 〜冒険者の章・八〜





  【86】



 まずは互いに強化術を入れて距離を取る。
 それから手に持った長棒をくるりと回して構えてみせれば、向うもすぐに構えを取った。……一見へっぴり腰に見えるが、この男の腕がどれくらいなのかは分からない。

「はじめっ」

 隊長の声に、エルはまず長棒で相手の足を払った。

「うわぁっ」

 焦ったように飛び跳ねた男は、だが綺麗にそれを躱した。ま、これくらいの攻撃は見えてンだろうよ、と今度は速い突きを繰り出す。
 それも情けない声を上げながらも男は後ろに逃げて躱した。これが見えてるならかなり出来る奴だ――思いながらエルは更に突きを重ねて相手を追い詰める。

「ジラット何やってんだ、逃げてばかりだぞ」
「多少は意地みせてみろー」
「折角強化入ってんだぞ、せめて受けろよ」

 楽しそうなギャラリーは笑いながらも彼に応援の声を上げていた。エルは相手を追い詰めながらも少しづつ突きのスピードを上げる。そうすればへらへらと笑っていられた向うの口元に笑みがなくなる、目が鋭くこちらの攻撃を追っている。

「こンやろっ」

 そこで、ぶん、と大ぶりすれば相手は大きく後ろへ下がった。

――おし、ぴったりだろ。

 後ろに飛びのいた筈の男はそこで何かに気づいて足元見た直後、地面につこうとしていた足を急いで違う位置にずらした。そこにエルの突きが入る。不自然な体勢でそれを避けようとした男はバランスを崩して背中から地面に倒れた。
 周囲はどっと笑ったが、男の顔は青い。
 勝者エルが告げられる中、男にゆっくりと近づいて行ったエルは、先ほどよりももっと悪人に見えそうな笑みを浮かべながら男の足元にあったモノを拾ってみせた。

「悪ィな、この間クバン行った時に買ったお守りを落しちまってたみたいだ」

 相手の足元にあったソレはクバンでヴィッチェの市場回りに付き合っている時、ザウラ領主の紋章を覚えるためにも丁度いいかと買った、紋章の刺繍入りの布製のお守り――主にザウラの人間が領主にあやかりたいと身に付けるためのもの――だった。
 戦闘中、向うに見えないように後ろでこっそりソレを落としたエルは、男が逃げてそれを踏むように誘導しながら追い詰めていたのだ。

「でもさ、硬いモノでもないし別に踏んでも問題ねー筈だけど、なんでまたそんなに急いで避けたんだ? 情けない声上げてた割りにゃ見事過ぎる超反応でさ、何にそんな驚いたんだろうな?」

 相手は返事を返さない。
 ただこちらが何を言いたいかは分かっているから、目だけを動かして周囲をちらちらと見渡している。

 そうして、立ち上がるとすぐに逃げ出した。

「おいっ、てめえっ」

 追いかけようとしたエルだったが、もとからすばしこかったろうところに強化が入っているのもあって男は素晴らしい速度で走って行く。エルは追いかけるのを諦めて舌うちをして見せ、状況が分かっていない周囲の連中は困惑の声を上げてざわついていた。

――はい、俺のお仕事はここまでっと。

「あー……今の状況を説明すっとだなぁ……」

 エルはぽかんとしている隊長を呼び寄せて、とりあえず何か起こったかだけを説明をしてやる事にした。






 『彼女』は走っていた、後ろには護衛達が追ってきている。ここまできたらもう逃げるしかない、予め壁の中で乗り越えられると当たりを付けていた場所を目指し、『彼女』は走る。

 そうしてその場所が見えたところで、見知った姿を見つけて『彼女』は驚いた。

「「何故ここに?」」

 互いにそう言い合った後、後ろに追手の姿が見えた。それで『彼女』の仲間――同じくこの屋敷に潜り込んでいた男は、状況を察したらしくすぐに叫んだ。

「早く行けっ」

 そうして指を軽く組んで下に向け、足場を作ってくれる。『彼女』はそこに足を掛けて飛び跳ねると一気に壁の外へと跳んだ。着地してすぐ上を見る、黒い影が見えてそれが仲間の男だと分かった途端、彼女は安堵した。

「よく自力で跳べたわね」

 着地した男の傍にいけば、彼はすぐに立ち上がった。

「何、有り難い事に丁度強化が掛かってたからな。さっさと逃げるぞ」

 何故強化術が掛かっていたのか疑問だったが、今はそんな事を聞いている状況ではないことくらい『彼女』も分かっていた。男と共にすぐに走りだす、どうやら周囲に外周警備の兵はいなかったらしく後ろに追手は見えなかった。うまく逃げられそうだ。

 顔も思い切り見られたし、ここはもうザウラに帰るしか『彼女』達には道がなかった。けれどぎりぎり、ザラッツと接触するという仕事までは果たす事は出来ていた。このまま無事に帰還さえ出来れば、トータル的には成功だと言えるだろう。

 そうして『彼女』達は思惑通り、無事クバンのザウラ領主の元まで辿りつくことが出来た。




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