黒 の 主 〜首都と出会いの章〜





  【16】



 ボーセリングの犬。そう呼ばれる者達は、まず物心ついた時には暗殺者としての訓練を既に受けていて、親の顔も、外の世界も知らずに育つ。
 彼女がアカネと言う名を貰ったのは、この仕事に入る少し前、自分の世代の普通の娘がどんな生活をしてどんな反応をするのか、それを知る為にリパの神官学校の寄宿舎に入る事になった時だった。神官学校の生活は半年だけだったが新鮮で、彼女にとっては初めての『外の世界』だった。
 それからすぐにこのナスロウ家に行くよう命令されて、そこから3年の間、彼女はここでナスロウ卿を監視しながらやってくる暗殺者達の手伝いをしてきた。

 早起きの主より早く起きて仕事をするのは別に大変でもなんでもなかった。
 けれどもそれだと若い娘として不自然過ぎるから、最初はワザと少し寝坊して、しかも起きてすぐはのろのろと行動するようにした。だがそれには誰も怒らなくて……失敗をしてみせても怒らなくて、アカネは不思議に思うしかなかった。暫くしてから、慣れたという事にしてわざとやっていた失敗や寝坊を止めれば、彼らはやたらと嬉しそうに褒めてくれた。
 使用人なのに、歳のいったメイド長は自分の為に服を縫ってくれた。執事は朝の見回りの時に花を摘んできては部屋に飾りなさいと渡してくれた。そしてナスロウ卿本人は、話し相手が欲しいと言っては自分を部屋に呼び、まるで客人のように飲み物や菓子を用意させてはいつも心配そうに『何か不便をしている事はないか』と聞いてくるのだ。

 ひっそりと、ただ静かに暮らしているだけの彼をどうして殺そうとする必要があるのだろう――彼女がそう思うようになるのにさほど時間は掛からなかった。







「で、今日はどういう訓練なんだ?」

 と、そうセイネリアが聞きたくなるのも当然だった。なにせ武具はつけずにただこの屋敷で一番広い部屋に連れて来られて、しかも部屋に入ればそこにはドレスを着たアカネがいたのだから。

「ここまで来ても分からんのか、ダンスの練習に決まってるだろ」

 それにすかさず、何故俺が、と呟けば、老騎士はにやりと少し意地の悪い笑みを浮かべてセイネリアに言った。

「騎士試験にちゃんとダンスもある、知らなかったのか?」
「……なら騎士になぞならなくていい」
「騎士になればハクがつくぞ、称号だけでもとっておいて損はない。それに将来、何かのパーティーに呼ばれるような事になればダンスの一つも出来ないと馬鹿にされるぞ。いや、お前を馬鹿にする為にわざとその手の席に呼ぶような奴もいるかもしれん。そういう奴に一泡吹かせてやろうと思わんか?」

 そこまで言われれば、セイネリアも仕方なく従うしかない。
 不機嫌を隠しもせずに指示された通りアカネの前に行って、彼女と手を組み、腰に手を回す。初めてなのだから音楽に合わせて……なんて芸当まで出来る訳がなく音がないのは当然としても、それを補って余りあるくらいネスロウ卿の怒声と手拍子と笑い声が飛ぶ。完全に馬鹿にされている、と思っても流石に生まれてこの方やったことがないモノを最初から上手くやるなんて事はセイネリアでも出来る訳がなく、結局は言われた通りにするしかない。
 ただ、そうしてアカネを相手に踊っていれば不思議に思う事もある。

『随分、慣れてるじゃないか、こんなものまで教えこまれたのか?』

 小声でボーセリングの犬として育てられた暗殺者の女に聞けば、彼女は唇を殆ど動かさずに返してくる。

『それは、ここに来てから、ナスロウ卿に』

 流石に暗殺者にダンスは教えないか、と思いながらも、答えた彼女の声が少し柔らかかったことにセイネリアは気が付いた。

「まったく、そんなだるそうに踊るな、いいか、見てろ」

 そこで、パン、パン、と手を鳴らしてナスロウ卿が近付いてくる。そうして彼はセイネリアを下がらせると、アカネの手を取って踊リ出した。軽やかにステップを踏み、ドレスの女を優しくリードする様は流石にに貴族だけあって優雅であり、こちらに文句を言っているだけはあると思わせる。
 だがそれよりもセイネリアが気になったのは踊る彼らの顔だった。見上げるアカネの頬は僅かに紅潮し、口元に笑みが湧いている。ナスロウ卿の口元もまた笑みを浮かべ、その瞳は本当に優しく細められて女を見ている。互いに互いの顔を見て笑みを浮かべるその様を見ていれば、察した事情に思わず鼻で笑ってしまう。

――不毛だな。それとも茶番と言うべきか。

 二人が楽しそうであればあるだけセイネリアの口元には皮肉と嘲笑の笑みが湧く。彼らの笑みの先には破滅しかないのが分かる分、楽しそうなその姿を滑稽だとしか思えない。しかも更に笑える事には、二人共それを分っているくせに目を逸らしてありえない希望を見ているということだ。

――悲劇、いや違うな、喜劇か。

 未来には悲劇が待ち受ける事を分っていて尚、今の幸福に踊る者達。本人たちにとってそれは悲劇でも、観客から見れば喜劇だろうとセイネリアは思う。……ただし、この場合の『観客』は自分ではないのだろうが。
 見た目だけなら紳士然としたタヌキ親父を思い出して、セイネリアは不快げに眉を寄せた。



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