黒 の 主 〜始まりの街と森の章〜 【2】 細道の先に、ゆうらり、と。 酔ってでもいるかのように揺れながら立っている男を見て、直感的にセイネリアは足を止め、すぐに来た道を引き返そうと思った。 だが、その時には既に遅い。 振り向いた道の反対側にも、男が一人。こちらの男は、抜き身の大剣を持っているのが遠目でもはっきりと分かった。男は、着ている装備の所為だろうか、ガチ、ガチ、と鉄の擦れ合う音を鳴らしながら、重そうな体に見合った重そうな足取りで近づいてきた。 後ろを見れば、揺れるような動きの男も歩いてくる。セイネリアには逃げ場がなかった。 流れる冷や汗と、早鐘を打つ鼓動を感じて、セイネリアは大きく、静かに息を吐き出す。それから両方の男を見られるように、壁に背をつけて男達の様子を伺う……その瞳を見られないように顔を伏せて。 鉄の音を纏った引きずるような重い足音と、揺れて不規則な軽い足音が近づいてくる。 男たちはこちらの顔が確認出来るくらいまで近づくと、一度、足を止めた。 「なんだガキかぁ、女かと思って期待したのによぉ」 「ばーか、こんとこ殺りすぎて女はこんな道通りゃしねぇ」 やはりこの二人はグルか、とセイネリアは思う。 しかもこの口調からすれば、男達は金品目当てで人を襲っているのではなく、殺す事を目的とする一番性質の良くない類の人間だろう。裏街には、この手のイカレた人間も珍しい訳ではない。 冒険者、という制度の所為で人が増えれば、当然犯罪も増える。しかも冒険者なんてものになろうとしてこの国にくる者は、腕に覚えがある、力が有り余っているような連中が多い。 だからそれをヘタに取り締まるよりも冒険者同士で解決しろとでもいうように、この国の法律では、戦闘能力があると見なされた冒険者同士の諍いによる殺傷事件は大抵は罪にならない事になっている。 それ幸いと、こういうただ人殺しがやりたいだけの連中が裏街で獲物を物色している事も……だから珍しいという訳でもなかった。 「ガキだったら……どうするんだ?」 わざわざ怯えたように声を震わせて、セイネリアは男達に聞く。まだ冒険者登録もしていない、武器といえば女から貰ったナイフ一つの子供を殺せば罪になる。捕まらない殺人ごっこを愉しみたいだけの相手なら、見逃す事もあり得る状況だ。 だが。 「そうだなぁ」 口調だけなら悩むような男を見れば、その顔は薄ら寒い笑みを浮かべたままだった。 セイネリアは体に緊張を纏う。 「いやもうなんかさぁ、こんとこ全然獲物にあり付けなくてさ。だったらもう贅沢言わなくてもいいかなって。だってさぁ、結局バレなきゃいいだけだしぃ?」 そう答えたのはゆらゆらと揺れながら歩く男。その両手にあるのはセイネリアが持っているものよりも刀身の長いナイフだった。 直後に、ぶん、と空気を斬る音が聞こえて、セイネリアは咄嗟にその場から離れた。石を砕く鈍い音がそれに続き、勢いで飛び散った細かい破片がいくつか体にぶつかった。 振り返れば、セイネリアが今までいた場所の壁にもう一人の男が持っていた大剣がめり込み、バラバラと壁の石が道に落ちていくのが見えた。 「ずっりぃなぁ、折角の獲物なんだからちゃんと楽しみを分けあおうぜぇ。お前の剣じゃすぐ死んじゃって俺が楽しめないじゃん」 逃げた先に回り込むのは揺れる男。 その姿が見えた途端、セイネリアは情けない悲鳴を上げて逃げた。 ひひひ、と狂人らしい笑い声が背後から聞こえる。 「るせぇ、ちゃんとそのガキが恐怖にびびる顔見れるように、すぐ死ぬようなとこは狙ってねぇよ」 答えた男は大剣をさらに振る。 確かに、男はセイネリアに致命傷を負わせようとしてはいなかった。剣は明らかにセイネリアの傍の空気を斬るだけで、逃げ惑うその姿を楽しもうとしているように思えた。 だからセイネリアは、男の思う通りに声を上げてやる。出来るだけ情けなく、出来るだけ子供らしく、ひゃあ、と高い声で。 「でもシーラぁ、やっぱその大剣はいけねぇや、いっくら相手をびびらすためとはいえ、そんなでか物じゃ肉を抉る感触も、血のあったかい流れも、ロクに感じる事が出来ねぇじゃないか」 完全に獲物をいたぶって愉しむ事しか考えてない男は、悲鳴を上げるセイネリアの退路を潰してはその反応を見て笑っている。嬲るだけの憐れな獲物としかセイネリアを見ていない男達は、遊びながら軽口を言い合う。 「ハッ、まずは獲物がどんだけ恐怖に震え上がるかってのが楽しみどこだろ。それにな、コレでも胴や頭をぶったたきゃぁ、そりゃイイ手ごたえが返ってくるもんだぜ」 逃げ惑う子供を笑う男達は、ただ遊ぶことに夢中になる。 泣き叫ぶその顔を見ようと、意識が獲物だけに向かい、相方の位置も自分の手元にさえ注意が薄れる。 だから彼らは気付かなかった。 セイネリアの頭の上を狙って男が振り回した大剣の軌道が、丁度獲物を追って近づいて来たもう一人の男に重なる事など。 醜い悲鳴が、壁に囲まれた狭い道に響く。 ガランガランと、鉄が落ちる音がそれに続き、男の叫び声が更に重なる。 剣を落して、男は自分が斬った仲間の体を抱き上げた。 「レクトーっ、レクトーっ、何でてめぇが……」 馬鹿だな。 ――娼婦のくせに頭のいい女はよく言っていた。 『坊や、人間ってのはね、信じたいものを信じて、信じたくないものを信じないものさ。だからね、信じたいように見せてやれば簡単に信じるのよ』 勿論、そう単純にひっかかるのは馬鹿だけだけど、とその後にころころと笑うのが女の常だった。 頭がいいといっても、あんな場所にいる女がいわゆる教養があるという事はない。だから女がセイネリアに教えたのは人間の見極め方だ。多くの人間と接し、彼らを手玉にとってきた女の知識をセイネリアに教えた。 それだけには心から感謝してやる、とセイネリアは思う。 獲物を最後までただの獲物だと思っていた男は、逃げ惑っていた子供が反撃する事など考えてもいない。自分が殺して愉しむだけの存在が、その背後でナイフを振り上げているなどと思いもしない。 『人間のここにはね、太い血管があるとかで、ここを切られると簡単に殺せるらしいのよ。それを医者だって男に聞いてから、嫌いな男と寝る時はね、こうして男の首に手を回しながら考えるの。今、この男の命は私の手の中にあるってね。男が首から血を噴き出してのたうち回る姿を想像すれば、嫌な男相手でもそれなりに愉しめたわよ』 まったく、あんたはイイ女だったと、セイネリアは口元に深い笑みを引いた。 煌く細い刃は美しい軌道を描く。男の首、耳の少し下あたりを目指して。 セイネリアの顔にも腕にも、戸惑いは微塵もない。軽い空気を斬って、突き刺さる感覚、ずぶりと肉に食い込む手ごたえが手に返る。 力を入れれば、ぶつぶつと何かを断ち切っていく細かな振動が刃を通して指に伝わり、硬い物に当たった感触と共にセイネリアはナイフを抜いた。 噴き出した血が視界を赤一色に染め上げていく。 目に入らないよう僅かに細めれば、体の右側からぬるま湯にでも浸かったように、右頬から肩、そして腕と手を生暖かい液体が覆っていく。 声が聞こえたのはほんの一瞬。狭い道を囲む高い壁の間、男の悲鳴は血で濁り、すぐに音にならなくなった。 ――成る程、確かに男の言った通り、この手の武器だと肉を抉る感触も血の流れもはっきりと分かる。 そんな事に感心して……とはいえ別にそれを愉しいとも思わない自分に、どうやら自分は奴らと同じ類の人間ではなかったらしい、などと冷静な感想を頭に浮かべた。 自分は異常ではあるのだろう、とセイネリアは思う。 確実に自分が殺した死体を見ても、後悔は勿論、恐怖も、逆に悦びも、セイネリアには何も感じる事は出来なかった。 ただもしも少しでも感情を揺さぶるものがあったとすれば、自分は自らの手で生き残ったのだと、その実感くらいだったかもしれない。 --------------------------------------------- |