黒 の 主 〜始まりの街と森の章〜





  【1】



 彼が生まれた場所は娼館だった。
 母親は娼婦で、少し頭がおかしかった。
 だが、子供にとってはそんな事はあまり関係がない話で、母親は彼を溺愛していたし、彼も母親を愛していた。
 けれども彼が12になったある日、彼女は言ったのだ。

「お前は、誰? 私のセイネリアは何処なの?」

 それで彼は全てを理解した。
 自分が、母親にとっていない存在であるという事を――。





 母親がセイネリアを『誰』と呼んだのには理由があった。
 彼はその日初めて、母親が用意した服ではなく、娼館に住む別の娼婦から貰った服を着ていたのだ。つまり、いつも母親が用意している女物の服ではなく、男用の服を着ていた。
 それを見て、彼女はセイネリアを我が子と認識出来なくなってしまった。
 理由は簡単だ、彼女にとって『セイネリア』は娘の筈だったのだから。
 彼女を捨てた愛しい男との間に生まれた娘――セイネリア。但し、本物の娘は生後すぐに死んでしまったそうだが。
 娼館ではよくある話の一つ、愛を誓い合ったものの来なくなった男を待ちつづける女。女は子を産み、その子を溺愛したが子はすぐに死に、心の支えを失った女は狂う。ただ女は美人であったから、仕事柄、多少狂っていようと店側には問題がなかった。女を捨てた男は黒髪だったらしく、女は特に黒髪の男を好んで客を取ったという。だから死んだ娘も、その後に生まれた『彼』も黒髪だった。
 女は、それら客の誰かの種で生まれた子供に愛する娘の名をつけて娘が本当は死んだのだという事自体を忘れた。――もし、その子供が女児であったなら、子供は一生気付かなかったかもしれなかったろうに――と彼は思ったものだが。

 娼婦達がセイネリアを憐れむようによく言っていた言葉がある。

『お前のかーさんは頭がイカレてる、可愛そうな坊や、お前はあの女の目に映っちゃいないよ』

 それでもセイネリアにとっては、母親だけが彼の世界の唯一の身内だった。
 うっとおしいくらいに愛情を注ぐ彼女の事を、彼は愛していたし、愛されていると感じていた。娼婦達に死んだ娘の話を聞いて、たとえ身代わりだったとしても、母親は自分にその娘を重ねている程度だと思っていたのだ。
 けれども『誰』と呼ばれて、彼は初めて気付いたのだ。

 あぁ、この女は自分の顔さえ見ていなかったのだと。

 彼女が見ていたのは『娘』という存在だけ。
 身代わりは別に実の子である彼でなくともいい、その辺の子供でも、いっそ子犬でも人形でも、これがお前の娘だ、といって渡せばそれだけで良かったのかもしれない。

 彼女が忘れたのは、愛しい娘が死んだという真実。
 そして、彼女がその後に息子を産んだのだという事実。

 それでセイネリアは全てが馬鹿馬鹿しくなった。
 彼女の世界には彼の存在は何処にもない。いないのだから見える訳がない。
 つまり自分は、何処にもいない人間な訳だと。
 理解した途端、彼は笑ったのかもしれなかった。

 急激に、彼の世界だった娼館という世界が色を無くして見えた。
 母親の姿さえ、ただの娼婦の一人として、セイネリアの瞳からは風景の一つ程度にしか映らなくなった。
 自分は誰でもない。
 自分には何もない。
 名前さえ自分のものではなく、見える世界には誰もいない。

 だから彼は娼館を出た。
 ここは最早、彼の居場所でも何でもなくなっていたから。







 自由の国クリュース。
 セイネリアがこの国に生を受けたのは、彼にとって最大の幸運だったのかもしれない。
 百年程前に起こった兵士達の反乱を発端として行われた改革以来、この国は冒険者と呼ばれる職業を国が認可し管理する制度を取り入れ、その所為で周辺の国々からこの国へやってくる者は後を絶たなかった。
 生まれが何であっても、奴隷でも農奴でもないただの冒険者という一括りの地位を手に入れ、後は自分の働きによって上を目指せる。他国で虐げられた生活をしていた者から見れば夢のような話に聞こえるのだろう。

 冒険者、というのは、別に名前通りの冒険をしてくる者という訳でもなく、労働者として国に登録している者全般の名称だった。
 早い話、国に冒険者として登録すると、その能力や内部の評価によって仕事を斡旋してもらえるという制度である。仕事は、冒険者らしく化け物退治や隊商や金持ちの護衛から、農家や商売人の手伝いまでなんでもあった。ちなみに、斡旋された仕事ではなくても、珍しい薬草や鉱石を見つけてきたり、害獣認定された獣や化け物を倒して来ても評価がもらえた。
 評価が上がれば紹介してもらえる仕事のランクも上がり、金も名声も手に入る。あわよくばその腕を見込まれて地位の高い貴族に召し抱えられたり、金を稼いで没落貴族の名を買い自分自身が貴族になる事さえ可能だった。
 つまり、何の地位も後ろ盾もない最下層出のただの若者が腕一つで成り上がる事も不可能ではない、という事だ。

 だから近隣の国々からこの国はこう呼ばれる。
 自由の国クリュース、どんな生まれの者でも夢をつかめるかもしれない国。

「自由の国、か」

 口元に皮肉めいた笑みを浮かべてセイネリアは呟く。
 そして、目の前に広がる風景を見て、その肉食獣めいた金茶色の瞳を細めた。

 クリュースは元からして様々な民族が交じり合った国であった。冒険者制度を開始してからは更に他国民が入り込み、髪も瞳の色も何でもいすぎて大きな街の大通りはまるで民族の見本市のような状況になる。
 それでも、セイネリアのその瞳の色は珍しく、顔を合わせた者はその瞳の色を忘れはしない。黒い髪に覆われた少年の顔の中、獣じみた輝きを持つその金茶色の瞳はどこかぞっとさせるような、本能的に人を怯えさせる何かがあった。
 だからセイネリアは、普段は瞳を伏せて相手と視線を極力合わせないようにしていた。……今はまだ、ただの子供として見られた方が都合がいいからだ。
 薄暗い通りをその金茶色に光る琥珀の瞳で見つめ、セイネリアは口元を歪ませた。

「さしずめこいつらは、自力で何もできなかった奴らのなれの果てというところか」

 娼館のある通りを出てすぐ広がる裏街には、昼間なのに無気力な瞳でそこここに座り込む人々がいる。セイネリアは彼らに侮蔑の視線を投げて歩き出した。

 彼が生まれたこの街の名はラドラグスという。
 クリュース国内でも南西に位置するこの街は、国内でも5つの指に入る大きな街であった。だからこそ、怪しい裏通りや歓楽街といった場所があるのであるが。
 セイネリアが娼館を出ると決めた時にそれを話した娼婦は、彼に餞別として多少の金と、まぁまぁ程度の生まれには見える服や、ちょっとした装備を用意してくれた。その女はあの娼館でも一番の稼ぎ頭で、頭が良く、セイネリアの事を気に入っていろいろ教えてくれた人物だった。それもあってわざわざ出て行く事を報告しに行ったのだが、出て行く事を告げた女はやけに嬉しそうで、餞別に渡してくれた物達はまるでこの日の為に準備していたかのようにすぐに出て来た。

『男なら強くおなり。強くなって誰にも媚びへつらわなくていいくらい恐れられる男におなり。二度とこんなゴミ溜めに戻ってくるんじゃないよ、あんたならなれる筈さ』

 女は頭が良かった。もし彼女がもう少し若く、男に生まれていたなら、こんな場末の娼館で一生を過ごすのではなく、冒険者となってゴミ溜めから這い出る事が出来たのかもしれない。
 彼女がセイネリアを見る瞳は、果たせなかった自らの夢をまだ未来ある少年に重ねている、そういう者の瞳だった。
 彼女の用意してくれたものを、セイネリアは礼儀程度には礼をいって受け取った。
 だが、別に感謝の言葉は彼女に必要はない、とセイネリアは思っている。
 女はセイネリアの為というよりも、自分の為にしているのだ。自分の夢を実現してくれる者の為に、知識と出来うる限りを与えた、それだけだ。感謝の言葉などよりも、セイネリアが彼女の望み通りの強い男となって現れる事こそが、あの女にとっては最高の喜びだろう。

 娼館を出はしたものの、さて、何処へ行くべきかとセイネリアは迷う。
 とりあえず、当面の目的は冒険者となる事。冒険者登録をする為にクリュースの首都セニエティへ行く事だった。
 とはいえ、行くならまず歩いていくか馬車で行くか。貰った金は多くもないから、街間馬車で悠々と首都までいくのは論外としても、子供一人が首都まで何も考えずに歩き出せば途中でのたれじぬか盗賊の餌食になるのが関の山だろう。
 だがまずこんな辛気臭いところは早く出て行くに限る、とセイネリアは裏街を出る為に歩きだしたのだった。
 娼館の通りから出た裏街は街の中でも南の外れで、ずっと北方面に行けば表通りに出られる筈だった。セイネリアは度々娼館の買出しの手伝いをかって出て、表通りの方にも何度か連れて行って貰っていた為、かろうじて大まかな道は分かる。とはいえ、大まかに把握はしていても、きっちりと道を全て分かっていたという訳でもない。それでも、街の中央近くにあるリパ神殿の塔を目指していけば大通りに辿りつけるのは間違いない筈だった。
 その時に少しばかり人気のない細道を通っても、昼ならばそこまですぐ危険に会うという事もない。

 そう、余程運が悪い、という事でもなければ。
 ……その運が、この時のセイネリアには壊滅的になかったのだとしか言えなかったが。


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