黒 の 主 〜始まりの街と森の章〜





  【17】



 その夜。
 部屋の出口、扉の外に人の気配を感じて、セイネリアはベッドの中で目だけ開いた。

 来客が誰で何をしにきたのか、セイネリアには既に予想が付いていた。ためらうような空気と、扉の取っ手に手を掛けたもののなかなか開けようとしない事まで気配で分かれば、もうそれは確定されたといっていい。
 セイネリアはベッドの中で思い切り顔を顰めたままため息をつく。本当に、面倒な事極まりない。
 やがて、やっと部屋の外の人物は決心がついたのか、そうっとセイネリアの部屋の扉を開いていく。
 その人物は震えている。中を見回して、おそらくベッドにセイネリアがいる事を確認すると、部屋に入ってくる。
 だから。

「何の用だ?」

 聞くのと同時に起きあがってその人物を見れば、予想と違えずリレッタがそこにいた。
 彼女はすぐに答えず、俯いて唇を噛み、胸においた両手の指を何度か組み直す。
 月明かりしかない青白い部屋の中では分からないが、おそらく今、彼女の顔は真っ赤なのだろう。

「……そんなの、この状況見て分かんないの?」

 苛立ちと不安で、たったそれだけの言葉に声の大きさが安定していない。
 セイネリアはベッドから降りて立ち上がった。
 彼女の服装はいわゆる寝間着だ。薄い布地で作られた体をしめつけない服は、胸のすぐ下が一度軽く絞られている以外、後は膝下までただひらひらと揺れているだけだった。今は冬ではないから半袖で、いつもなら健康的な印象を与える日焼けした肌は月の光で青白く儚げな印象を与えている。胸元は大きく開き、緊張で滲んだ汗が喉から鎖骨の辺りに浮いているのが光って見える。更によく見れば、胸の上下運動はやけに早く、それもまた彼女の緊張を語っていた。
 もちろんセイネリアには彼女の意図が分かっていた。ここまで来て分からないのは男じゃないだろう。
 ただし彼女の誤算は、セイネリアがそれを喜ぶような人物でも、年齢相応の少年らしく彼女の姿に興奮を覚えるような人物でもなかったという事だった。

「まぁ、意図は分かるけどな……」
「だったら」

 思い切って一歩近づいてきたリレッタをあまりおもしろくもなさそうに見て、それから彼女の腕を掴む。そのつもりで来たくせに反射的に彼女は腕を引こうとして、セイネリアは笑ってしまいそうになる。
 そのまま腕を引っ張り、体ごと引き寄せる。ひ、と短い悲鳴をあげて逃げようとした彼女は、だが途中でこの状況が自分の望んだものだという事を思い出したらしく大人しく腕の中にやってくる。
 体に触れて、すぐに分かるのはその震え。
 耐えるように下を向いた彼女がおもしろくなくて、セイネリアは彼女の顎に手を掛け、その顔を上げさせる。薄暗い中でもここまで近ければハッキリと見えるその表情を、セイネリアは暗闇でも浮かびあがる琥珀色の瞳でじっと見下ろした。
 おびえた獲物のように、大きく目を見開き体の震えをひどくする彼女。泣き叫びそうに見えるのに、目を逸らさずにいるのはまぁぎりぎり合格点かとセイネリアは思う。
 顎の手を離しても彼女はそのまま動かない。セイネリアはその手を彼女の頬に触れ、軽く撫でてから指で耳たぶに触れる。びくんと体を強張らせて、唇を薄く開いた彼女はますます怯えたようにぎゅっと眉を寄せた。
 弄ぶように、耳たぶを人差し指と中指で挟んで軽く引っ張り、他の指で耳の下を撫でる。そこからもう少し指を奥にスライドさせて、耳の後ろの髪の生え際から髪の中へ指を入れる。
 手を動かす度に過剰に反応する彼女は、髪を梳きながら首筋からうなじを撫でてやれば、ただでさえ震えていた瞼を思わず閉じてしまいそうになる。
 だから手で髪を押さえたまま、表に出されたその耳にそっと囁く。

「なんだ、自分から来たくせに怖いのか。やめて欲しいならやめてもいいぞ」

 そうすればリレッタは閉じそうになっていた目をきっと見開いて、セイネリアの顔を睨み返した。

「気にしなくていいわ、続けなさいよ」

 体の震えは全く止まらないのに、そう返した彼女にセイネリアの口元には笑みが湧く。
 セイネリアは先ほどから掴んだままの彼女の手を自分の目の前まで持ち上げると、舌を出して彼女に見えるように手の甲をゆっくりと舐めた。
 舌に感じる塩味は、人間の肌の味。
 舌にまで彼女の震えが伝わったから、そこに軽く歯を立ててみる。

「やっ……」

 引かれる手を離してなどやらない。噛んだ場所を再び舐めて、そのまま彼女の手の甲からすっと手首までを舌でなぞる。彼女の顔はもう泣きそうで、それでもまだ僅かに強がっている様は見えるものの体は既に逃げていて、手はずっとセイネリアから取り戻そうと力いっぱいに引かれていた。
 セイネリアは更に掴んだ手を引っ張って、今度は彼女の手首から肘までを舐めてやる。できるだけゆっくりと、見せつけるように、彼女の顔を見ながら舌を滑らせる。
 とうとう目を逸らしてしまった彼女は、声にならず唇だけで『やめて』と呟いた。

 途端、セイネリアは彼女から手を離した。
 更には軽く体を突き飛ばしてやって、自分から距離を取らせた。

 セイネリアの笑い声が部屋に満ちる。
 何が起こったのか分からずに呆然とする彼女の前で、肩さえ震わせてセイネリアは笑う。
 リレッタの方は、ふらふらと更にセイネリアから距離を取るように後ろへ下がり、部屋の壁に当たると寄りかかって大きく息を吐き出した。

「どういうつもり?」

 やっと状況をつかめるまで気力が回復したらしい彼女が言う。
 セイネリアは未だ湧く笑みの為に口を押さえながら、ベッドの上に座って彼女に視線を向けた。

「ただより高いものはないって話だ。……まぁそうだな、お前がアガネルの娘じゃなかったら、とりあえず据え膳で食っておいてもよかったけどな」
「なによそれっ」

 さすがに本気で怒ったらしく、彼女はセイネリアを睨む。
 それを横目で見ながら、セイネリアは今度こそ顔から笑みを一切消して、逆に彼女を睨み返した。

「……で、条件はなんだ?」

 更なる文句を言おうとしていた彼女の口が閉ざされる。

「まさか俺の事が好きだと言い出す訳じゃないだろ? 体を差し出す代わりに俺に何をしろって言うんだ?」

 もうセイネリアの顔に笑みは一切ない。ここからは交渉だと理解したリレッタは、自分も顔から極力感情を消して、努めて冷静に声を出した。

「貴方、首都に行くんでしょ? 私も連れていって欲しいの」


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