黒 の 主 〜傭兵団の章三〜





  【1】



 赤い髪の女が笑っている。
 その女の顔はぼやけていて見えないが、笑っているのは分かる。
 セイネリアは女のその細い首に手を伸ばし、力を入れた。
 途端、女の白い肌が土気色に染まり、そこにはただの死体が転がっていた。



 目覚めは最悪だが、引きずる程の事ではない。
 胸糞の悪い嫌な夢なんてものは、剣の中の騎士の人生を見せられた時で慣れた。ましてや母親の事など後悔もしていないのだから悪夢にもならない。ただどこかで悪意は感じる。何者かが自分を暗い沼にでも引きずり込もうとしている感覚はある。それはずっと、黒の剣を持った時から感じてはいた。おそらくはこれが、憎しみだけの存在になったというギネルセアの意思なのだろうと思っている。

 それでも他者の意思を同調して受け入れるなんて事はセイネリアにはありえない。そもそもギネルセアの悪意――憎しみは、セイネリアが引きずられるような共感する部分が少しもないから入り込めない。もし自分が狂う場合は、自分自身に絶望して狂うのだろうとセイネリアは思っている。だからその悪意に脅威を感じた事はない。無視していれば感じなくなる程度のモノだ。

――幸い、どんな悪夢を見たとしても、体調に問題が出るものではないしな。

 それだけは便利だが、と思いながらセイネリアはふん、と鼻で笑う。
 黒の剣のせいで何をしても体に不調が出る事はない。だからそもそも寝なくても食わなくてもいいのだろうが、多分食うのはともかく寝ないと精神面に問題が出る。知識や記憶はともかく、精神は剣の力とは別のところにある、というのはある意味セイネリアにとって唯一の救いではあった。
 これで自分が自分でなくなっていたら、本気で生きている事が地獄でしかないだろう。……いや、いっそ自我を無くして剣の木偶として生きた方が気楽なのかもしれないが。

 セイネリアは机に置いていた足を下ろすと椅子から立ち上がった。この執務室の隣は寝室になっているのだが、昨日は食事もとらずにここに座ってそのまま寝た。だから急に動き出せば体中の固まっていた筋肉達が悲鳴を上げる。こういう直接体の異常にならない事態は即治らない訳だ、とそう考えながら手足を動かして体を解した。

 ふと、ドアの外に気配を感じてセイネリアは口を開く。

「入ってきてもいいぞ」

 そうすればカリンが入ってきて、その泣きそうな彼女の顔にセイネリアは眉を寄せた。

「寝てないのか?」

 きけば返事を返さないから、おそらく寝ていないで確定だ。

「寝てもいい時にはちゃんと寝ておけ」

 それでもカリンは答えない。ただじっとこちらを見ている。
 勿論、彼女が寝ていない原因が自分である事くらいセイネリアも分かっている。だが彼女がいくら自分を心配したところで出来る事はない。ならば彼女が自分のために仕事外で何かをする意味はない。

「俺の体を心配する必要はないと言っていた筈だ。お前はお前のすべき事をしていればいい」
「ですが……」

 やっと口を開いたカリンだったが、その言葉をさえぎってセイネリアはどこまでも冷静に言った。

「現状、俺が抱える問題にお前が出来る事はない」

 それでまた彼女は口を噤んだ。
 ケサランはカリンに全てを話せと言ったが、話したところでカリンに出来る事はない。なら余計な事を言って彼女を悩ませる必要はない。それに、何もできないという無力感より、まだ分からなくて悩んでいる方が彼女にとってもマシだと思えた。

 それでも、彼女がずっと傍にいるのなら、遠からずセイネリアが不老不死である事は分かる筈だった。彼女に話すのはその時でいい。行きつく先は狂う事だとしても、まだ当分――カリンやエル達が生きている間くらいは正気でいられるだろう。それまでは託された地位や役目をこなしていくくらいはしていてもいい。
 剣の力は勿論、不死の体も、最強の騎士の技能も、与えられただけのモノを使うのは少しも楽しくはない。だが問題を解決するために考える事は多少は感情を高ぶらせてはくれる。自分が自分である限り、『考える』事は与えられた『力』とは関係ない、自分の力だと言えるだろうから。




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