黒 の 主 〜傭兵団の章一〜





  【58】



 サウディンがいつも通りお休みのキスをするために母親の部屋を訪れれば、珍しく母はベッドから起きていた。

「今日はお加減がよろしいのでしょうか?」

 だから思わずそう聞いてみれば、母は笑った。

「えぇそう、少し気分が良かったから本を読んでいたのです」
「そうですか、ですがほどほどにしてお休みください、母上はお体が丈夫ではないのですから」
「大丈夫です、普段から寝すぎているからあまり眠くないの」
「そうですか」

 ここまで機嫌が良さそうな母を見たのは久しぶりすぎたから、サウディンも割合本心から笑顔を浮かべられた。おそらく、また現実を忘れているだけだとは思うが。それでもこうして害がなければ忘れたままにさせてやってもいいのだ。忘れて幸せな夢を見ながら夢の中で死ねばいい。

 ゼーリエン軍がきたらサウディンは大人しく投降し、弟に領主の座を譲ると宣言するつもりだった。そうすればその後も貴人として丁重に扱うというのは、ボクルが向こうと交渉して約束を取り付けてくれている。
 当然母も捕まるだろう。
 だからその時に言うのだ、自分が領主になろうと思ったのは母のせいだと。幼い頃から領主になる事を強要されて、ならなくてはならないと思い込んでいたと。この言葉に嘘はないから、いざとなったら『告白』をしたっていい。

 おそらくそれで二度と母とは会わなくてよくなる。
 母は運がよくても幽閉で、完全に壊れるか、体の問題かでどちらにしろ長くはもたないだろう。当然の罰を受けるだけではあるが、サウディンにとっては復讐でもあった。そう、さっさと壊れるなり死ななかったこの女が悪い。まだこの女が生きているのは最後に罰せられる運命だからだ――最近のサウディンはそう思っていた。

「少し肌寒いから暖かいお茶を入れて貰ったの、サウディン様もどうでしょうか?」

 テーブルにはカップが二つ置いてある。自分が来る時間は決まっているから、最初からこちらにも茶を勧めるつもりだったのだろうと分かる。

「そうですね、それでは頂きます」
「なら少し温めますね」

 言いながら母はポットの中に温めるための粉を入れる。これは火から熱と光を分離して出来た熱の方で、水分に触れると溶けて熱を出す。熱と言っても燃える程熱くはならないから、こうして茶や食事の温め直しなどによく使われていた。ちなみに分離した光の方は光粉としてランプ等によく使われている。

「どうぞ、サウディン様」
「ありがとうございます」

 琥珀色の液体から立ち上る匂いは、サウディンが好きなテチの葉の香りだろう。この香りが好きで、幼い頃はよくテチの葉を入れたハーブティーを母に淹れて貰った。今日のは少しショウガが入っているようだがこれは体を温めるためだろう。
 鼻に抜ける匂いを楽しんで、少しばかり幼い頃の思い出に浸ってから、サウディンはカップを置いて母に聞いた。

「私のためにこのお茶にしてくださったのですか?」
「えぇ、そうです」
「覚えていてくださったのですね」
「当然ではないですか」

 あぁ本当に母とこんな穏やかな会話をしたのはどれくらいぶりだろうと思って――その直後にサウディンは眩暈を覚えて頭を押さえた。だが直後、何故か動機が早くなって体中の毛穴が開いたような悪寒を感じる。脂汗が吹き出して歯が小刻みに震えてガチガチと音を鳴らしだす。
 ここまでくれば、何故こんな事が起こっているのかサウディンにも分かった。

「母、上……」

 手を伸ばせば母は後ろに下がってこちらを見ていた、優しい笑みを浮かべたまま。

「誇り高いサウディン様、貴方が罪人として扱われる事などあってはなりません。キドラサンの正統な領主として、貴方は最後までその誇りを守る義務があるのです」

――何を言っているんだこの女は。

 体中の筋肉が強張る、吐き気がする、視界がぶれるがそんな事を構っていられない。強張る手足を動かして、逃げる女をサウディンは追う。

「大丈夫です、私もすぐ貴方を追います」

 逃げる女を捕まえられない。足も手も思ったように動かない。何故いきなりこんな行動を起こしたのだという疑問は、女の次の言葉で明らかになった。

「母も貴方と離れたくありません、ずっと一緒です」

 おそらく、サービズが逃げる前に母のところにきたのだ。そうしてあの時の話を母にした。母親はどこかうっとりした顔をして、隠し持っていたらしい短剣を胸に抱いて見せた。それは、サウディンが死んだらそのあとを追うからと伝えているつもりなのだろう。

「ふざ、け……るな」

 サウディンは手を伸ばす、とにかく今はこの女を捕まえたかった。痛みも、吐き気も、苦しさも無視して、とにかく追いかける。

――ふざけるな、俺は死ぬ気なんてない、罪はお前が背負って俺は生きるんだ。

 そうして伸ばしたサウディンの手は、とうとう女の腕を掴んだ。




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