黒 の 主 〜傭兵団の章一〜





  【44】



 セウルズ率いるサウディン軍敗退の報告の後、キドラサン領主の館は不穏な空気に包まれていた。廊下を歩けば苛立ちと不安を抱えた人々があちこちで心配そうにこそこそと話している。時には怒って怒鳴る連中も見たが、こちらの姿を見ると急いで笑顔を張り付かせるか、バツが悪そうに会釈をして逃げるかだ。
 皆自分を見ると笑って礼をしてくるが、その中で本心から笑っている者などいない。

 故キドラサン卿の長子であるサウディンは、遠巻きに見ている人々の視線を感じながらも廊下を歩いていた。後ろに2人護衛を連れているが、彼等は父が亡くなった後伯父からつけられただけの人物のためプライベートな交流は一切ない、本当にただの護衛だ。

 サウディンを領主にするための争いなのに、サウディン自身には何かをするための権限も役目も何もなかった。軍の事や政治的な根回しもすべて伯父のサービズに任せればいいと言われている。まぁ、自分の名を冠していても自分はただの飾りでなんの権限もないなんて事は最初から分かっていた事ではある。
 そこでふと、彼は思った。

 母は優秀な自分が領主になるべきだと言うが、この状況で自分が優秀である意味はないのではないか、と。

 どうせお飾りなら自分の能力など関係ないと思ったら、なんだかサウディンは笑えてきた。ただし、もう自分が領主になる事はないだろう――そう思っているからこそ笑える訳だが。
 そうして彼は、目的の部屋の前につく。
 まだ子供だから――そのせいでこの戦いに対して何も仕事がない彼の一番重要な仕事。それはいわゆる母親のお守りだ。
 部屋の前の見張り兵はサウディンの姿を見るとさっとドア前から退く。サウディンは姿勢を正してドアをノックする。

「母上、私です。入ってよろしいでしょうか?」

 暫くすれば中からドアが開いて、母付きの侍女が顔を出した。

「母上のお加減は?」

 小さな声で聞けば、困った顔の侍女もやはり小さな声で答えた。

「昼にまた発作を起こされて、今は落ち着いておられます」
「そうか、大変だったね、ご苦労様」

 そこで侍女が少しだけ安堵した笑みを浮かべた。

「ありがとうございます」

 そうしてサウディンは部屋の中に入っていく。母親はどうやらベッドのようだった。
 母エーシラは元から体が弱い方ではあったが、別にいつでも寝ていなくてはならない程病弱という訳ではなかった。呼吸器系が弱いとかで無理が出来ない体ではあったが、逆を言えば静かに日々を過ごしていれば殆ど問題はなかった。
 だがシェナン村での敗北の報告を聞いてから精神的に不安定になり、突発的に暴れ出すからその度にアルワナの神官を呼んでは眠らせていた。それで暫く寝てもらって起きた時には落ち着いてくれるというのを繰り返していた。
 そうして、落ち着きはしたがぼうっとしている彼女の機嫌よくするため自分が呼ばれる、というところまでがセットだった。

「母上、お加減はどうでしょうか?」

 声を掛ければ、じっと動かず壁を見ていた彼女が振り向いてぱっと笑顔になる。

「まぁサウディン様、私めの事などご心配をしてくださってありがとうございます」

 本当に嬉しそうな母は今、この間の敗北の事を忘れている。

「子が母を心配するのは当然の事です」
「あぁ、やはりサウディン様はお優しく聡明でいらっしゃいますね。このキドラサンの地の民のためにも、領主となられるのはお優しい貴方以外考えられません」

 それにはもう、顔がひきつって笑顔の体裁さえ作れなくなる。そこから延々と、どれだけサウディンが才があるかとか、サウディンが継ぐことが正義であるかを話し出すのだ。いくらもう慣れたとは言っても苦痛でしかない。しかもまだその可能性があった内なら聞き流せていても、その可能性がほぼゼロの今ではでは聞くだけで苛立ちにしかならない。母の言葉を徹底的に否定してやりたいのを我慢して笑って頷くなんて苦行以外の何物でもないのだ。
 だがそうしておかないと暴れて迷惑をかけるのだから仕方がなかった。この母のご機嫌とりが、サウディンだけが出来る唯一にして最大のこの屋敷で確実に役に立つ仕事だった。

――もういっそ狂って暴れた時に神官を呼ばずにそのまま放置してみたら、体の発作で本当に倒れて死んでくれるんじゃないか。

 最近ではそんな事さえ思うようになった。
 自分達はもう負けたのだ。セウルズが捕まって、こちらの軍はほぼ壊滅状態。ここまでくれば自分の行く末は死か幽閉か追放くらいしかなく、死さえ覚悟していればもう足掻く気も恐れる気も、勿論妙な希望を持つ気もなくなる。

 サウディンとしてやれる事は全部やった。
 だから後はもう、結果を待つだけだった。




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