黒 の 主 〜冒険者の章・八〜





  【51】



「口約束というのはいつでも破棄出来るものです。証拠がなければ裏切られた側は正当性を主張できません。けれど人というのはいい条件を出されるとそれを信じたくなってしまうものです。信じて、つい言う通りに労力を費やして、リスクを負って……さんざん利用された後に約束を反故にされ、ただ一方的に利用されて損をする――というのはよくある話です」

 スザーナ卿の顔が益々青ざめている。現状の自分の状況を照らし合わせれば、それを笑い飛ばせない事は理解しているだろう。なにせ現状、盗賊騒ぎのリスクを一手にひきうけて、それをおそらくグローディ側に知られてしまっている状況で、スザーナ側はそれに釣り合うだけの確実に得ているものがないのだから。

「ですからもし……そういう場合になったらの話ですけれど、私に提案があるのです」
「それは……どんな?」

 スザーナ卿の声が弱い。期待を込めたその声を聞けば、うまくこちらの術中にはまっているらしいとセイネリアは思う。

「簡単な事です。約束を果たしてもらうまでは何もしなければいいのです。何かしてほしいならまずちゃんと向こうからの見返りを貰ってからにするのです」
「だがそれは……向こうが、こちらが動くまでは見返りなど返せない、と言って終わりなのではないかな?」

 どこか必死に、すがるような掠れた声はそれだけでスザーナ卿がディエナの言葉にかなり傾いている事を示している。ディエナはそれにやはり、笑う。若い女の優しい笑みは、スザーナ卿にとって救いの手にも見えるだろう。

「ですからそのために動けない理由を作ればいいのです。例えば今回、我がグローディとスザーナで互いの平和の為に協力する、という条約を結んだとします。そうすればもしザウラが自らの消耗を抑えるためにまずスザーナをグローディにけしかけようとしたとしても、スザーナは条約を理由にそれを断ることができます。どうしてもスザーナ側を動かしたいのなら、条約を破棄しても非難されないだけの状況を作れと向こうに要求すればいいのです。こちらを動かしたいなら、ちゃんと向こうにも相応の労力とリスクを負って貰ってからという話ですね」
「……確かに、成程、そういう手もあるが……」

 考えながら、それでもスザーナ卿の考えがかなりこちらに傾いているのは分かる。そこでディエナは、ここまで使わずにいた切り札を使う。

「もし、我がグローディと条約を結んだことでザウラに裏切ったのかと言われたら――例の盗賊騒ぎ……その件で脅されて拒否できなかったと言えばいいだけです」

 さすがにスザーナ卿の顔が凍り付く。
 ずっとこちらがとぼけていた切り札――盗賊の親元がスザーナであることを知っているのだというそれを出されては即反応は出来ない。けれどこのケチなクソジジイなら思う筈だった、この際ディエナの話に乗るのが一番リスクが低いと。少なくともこれ以上損はしないし、盗賊の件が明るみに出てスザーナの名誉を傷つけることもない。そしてなにより、余分な事をリスクを背負ってまでやらなくてもよくなる、と。
 最初からいきなり盗賊騒ぎの件で脅して条約を持ち掛ければスザーナは反感しか持たないだろうが、脅すネタさえメリットとして使える事を示唆すれば向うの心証はまったく違う。

 青くなっていたスザーナ卿の顔が考えているうちにわずかだが安堵の色を浮かべる。そこにダメ押しでディエナが続けた。

「利用されて損するだけの役割なんて誰もやりたくありませんもの。使い捨てされないようにこちらも頭を使って身を守るべきです、そう思いませんか?」

 ディエナの笑みは少しも変わらない。スザーナ卿さえもがその笑みにつられたように笑って答える。

「確かに、それはありますな」

 明らかに表情も声も明るくなったスザーナ卿の反応を見れば、今回の会談がこちらの思惑通りに成功したと思っていいだろう。条約を結ぶ理由が理由であるから、スザーナ卿がザウラに伺いをたてて考え直す事もまずない筈だった。

 ディエナはそこでレッキオを促して、盗賊討伐の誓約書ではなくもう一つの書類をテーブルに広げさせるとスザーナ卿に見せた。

――そうしてここで、スザーナとグローディの不可侵条約が結ばれる事が決まった。




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