黒 の 主 〜冒険者の章・八〜 【38】 それにはさすがにディエナが即答できずに一度口を閉じる。 まったく本当に性質のよくないくそ親父だと思いつつ、セイネリアはそのあまりの小者ぶりに呆れていた。 「父は……祖父が弱った事もあって忙しく、外に出る余裕もない日々を過ごしております」 ただディエナも自分の役目は分かっているから、さほど待たせずにスザーナ卿にそう返した。 「そうなのか、ふむ……元気なようでなによりだ。なにせよからぬ噂を聞いたものでな」 「よからぬ噂、ですか?」 「あぁ、最近その姿を見た者がいないと聞いたので、ロスハン殿も病気か、出てこれないような状況にあるのかとな。いらぬ心配だったようで安心した」 鼻を膨らまし、目を爛々と輝かせるその顔は下種どころの話ではない。余程ディエナが困る顔が見たいのか、相手をいたぶろうとする卑しい顔にはヘドが出る。 「いえ、ご心配をおかけしました、父は元気です」 だがディエナはそこで背を伸ばし、顔を上げて笑ってみせた。毅然とした表情を崩さなかったことでスザーナ卿は少し残念そうに表情を曇らせ、そこで話を終わりにさせた。 「ほう……そうか、それは良かった。とにかく、今夜はささやかではあるがもてなしの席を設けてある、準備が出来るまでは部屋でくつろいでいてくれるだろうか」 「はい、ありがとうございます」 そこで領主が手元のベルを鳴らせば後ろの扉が開く。そうして案内の兵――バラッデというらしい――がディエナの手を取って扉の方に連れていく。バラッデは扉前で彼女から離れて一歩引き、ディエナはそこで最後にもう一度スザーナ卿に向けて礼をする。そうして領主の部屋の扉は閉ざされた。 ただ――閉ざされる瞬間、スザーナ領主の顔が忌々し気に顰められていたのをセイネリアは見ていた。 狭くはあるが、客室らしくそれなりに上質な生地の寝具が使われたベッドに座って、ディエナは軽く息をついた。 彼女が領内から出たのはこれで3度目、前の2度はどちらも首都セニエティへ行った時で、その時はただただ人の多さと大きな建物の多さ、そしてリパ大神殿と王城の大きさ広さに驚きと感動の連続だったのを覚えている。 だからという訳ではないが、このパハラダは領外に来たというより田舎に遊びに来た感じに近く、割合気が楽だったというのはあった。 さすがにスザーナ領主に会う時は緊張したし、やりとりの最中は背中にびっしょりと嫌な汗をかくくらいの状態だったが、終わればその分ほっとして……そして黒い男に言われた言葉で気が楽になった。 『スザーナ卿は今回の黒幕じゃないな。となれば例え怒らせたとしても何もできないから、何を言われてもただの嫌味なクソジジイだと思っていればいい』 『クソジジイ……ですか』 『そうだ、何もできないから口での嫌がらせしかできない。こちらが毅然とした態度を取っていれば勝手にしぼんでくれる程度の男だ、いっそ立場は自分の方が上と思って接するくらいでいいぞ』 それからセイネリアという男は言った――これからの話し合い、盗賊についての事は、基本的にはザラッツに任せていてうまくやってくれている、という前提で話せばいい。分からない事はザラッツに任せているで全部返す。重要なのは何を言われても彼を信用していて疑いの余地もないという自信満々の態度を崩さない事だ、と。 ザラッツ……貴族出だというのにやたらと真面目で努力家の騎士を思い出してディエナの顔は自然と笑みを浮かべる。 『分かりました、自信をもって毅然と、ですね』 『そうだ、今回のあんたの仕事はこの証書にあのクソジジイのサインを貰うだけだ』 それは病床の祖父グローディ卿のサインが入った誓約書だった。スザーナとグローディ両国で街道に出る盗賊を排除するよう努めるという、内容だけでいえばただの口約束のような曖昧なものではあった。ただし、これを向こうの了承の印として残しておけば、スザーナは少なくとも現領主の間は今後一切、盗賊をわざと雇うなどというマネは出来なくなる。なにせ誓約書があっての違反なら中央の貴族院へ直接訴える事が出来るし、武力衝突に至った場合でもこちらの正当性を主張できる。 『……でも、それだけの効果があるなら、向こうがすんなりサインしてくれるのでしょうか?』 『せざる得なくなるさ。あんたが自信のある態度を取っていれば、勝手にいろいろ疑って疑心暗鬼に陥るだろうからな』 『そう、ですか……』 正直ディエナとしては半信半疑と言ったところで、そこまで簡単に上手く行きそうな気はしなかった。けれどこの男の言う通りにしてくれとそれこそザラッツからも頼まれていたから、精いっぱい毅然として自信のある態度を取ろうとは思った。 「……でも、クソジジイ、というのはいいですね」 自分に自信をつけるために手鏡に向かって笑顔の練習をしてみながらディエナは思い出して笑う。スザーナ卿に何を言われても、心の中で『クソジジイ』と唱えれば笑えそうな気がするくらい、その言葉は楽しくて気に入ってしまった。 ――もし人前で口に出したら、お母様が卒倒しそうだけど。 けれどそれでとても気が楽になった。鏡の中の自分が何時になく自信のある顔をしているのがディエナにも分かった。 --------------------------------------------- |