黒 の 主 〜冒険の前の章〜





  【10】



 午前中の娼館は静かで、ただ治療師の魔法使いが帰ったばかりだから一部の者は忙しそうにバタバタしている中、カリンはそっとワラントの部屋に入った。呼ばれてはいたものの、彼女が眠っているように見えて僅かに躊躇する。
 横になったままじっと動かず、だがカリンが傍に座ると薄く目を開けた老女は、口を開くと二度ほど大きく呼吸をしてから声を出した。

「坊やはなんていってたかね?」
「婆様に何かあったらすぐ連絡をしろと。魔法ギルドなら何かもっといい治療方法があるかもしれないから聞いてみると言っていました」
「へぇ、そりゃ坊やらしくなく優しいじゃないか」

 少し苦しそうにいいながらも、ワラントの顔は嬉しそうだった。

「坊や扱いを謝らせる前に死なれたら癪だから、だそうです」

 けれどカリンがそういえば、ワラントは声を上げて笑い出す。ひゃひゃとしわがれた笑い声を楽しそうに上げて、けれど咳き込んでそれが途切れたからカリンは急いで彼女を軽く起き上がらせるとその背を撫でた。

「大丈夫さ、もう少しくらいはね。……あぁでも、本当に坊やらしいねぇ。あの子がもっととんでもない男になるところを見てみたかったねぇ」

 実際のところ、セイネリアに言ったよりもワラントの体はずっと悪かった。本当はこのところまったく起き上がれなかったのだが、セイネリアが来るという事で直前にリパ神官を呼んで治癒を掛けてもらって無理やりあの時は起きていたのだ。

「でしたら、ちゃんと休んで元気になってください。無理をして起きるのはまだしも、お酒まで飲むのは無茶すぎます」
「けどねぇ坊やの為の祝杯だ、飲まない訳にはいかないだろ?」

 少し話しただけで苦しそうではあるものの、ワラントの顔はどこまでも上機嫌で満足そうだった。

 おそらく、ワラントはもうすぐ死ぬのだろう――冷静に頭はそう判断しているのに、それを否定して、彼女はまだ大丈夫だと思い込もうとしている自分をカリンは理解していた。笑う老婆を見ているだけで息が苦しくなって、目が自然と熱くなる。
 カリンは不思議だった。
 ボーセリングの犬として死はいつでも身近なものだった。
 一緒に寝起きしていた者が翌日死んだのを見ても何も感じなかった、自分の死も、仕事で人を殺す事も、何も感じなかった筈――なのに。

 主である男の事を思えば死にたくないと思い、こうして少しの間傍にいただけの老女を死んでほしくないと願う。こんな気持ちは自分にはない筈のものだった。こんな事で心が乱れる事はない筈だった。

「婆様……」

 言えば、瞳から涙がこぼれる。どうしてこの老女の前だと自分は泣いてしまうのだろうと……そう考えて呆然とすれば、ワラントの手が伸びてきてカリンの頭に置かれた。

「いい子だ。本当にあんたはいい子だね。いいかい、よくお聞き。あの坊やは強いけれど、それでもきっといつか心が折れるような何かにぶち当たる事があるのさ。その時にはあんたが支えてやるんだよ、別に何もしてやらなくてもいい、あの坊やの傍にいてやるだけでいいんだ。それからあの坊やはきっと泣けないから、代わりにあんたが泣いておあげ」

 ワラントの手は弱弱しくカリンの頭を撫で、それからそっとカリンの涙をぬぐった。

「私のために泣かなくていいんだよ、私はとても満足してるんだ。なにせ一生かけて作り上げたものを安心して任せられる人間を見つけたんだからねぇ」

 その言葉が示す意味をカリンはほぼ理解していた。理解していたがワラントの望み通り、もし彼女の容態が悪化してもセイネリアには告げない事を決めていた。たとえそれが、主であるあの男の命に初めて逆らう事になっても……。



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