黒 の 主 〜傭兵団の章二〜





  【20】



 更に翌日、セイネリアはカリンを通して約束を取り付けていたから、ボーセリング卿の館へ向かった。ちなみに普段はボーセリング卿とは文書のやりとりで済ませていて、会うにしても例の交渉用に作った酒場を使う事にしていた。だからあの狸親父の屋敷に行くのはこれが初めてではある。
 最初はカリンもついて行くと言っていたが、彼女も彼女で忙しいだろうと断った。これはどれだけ最悪の事態になってもセイネリア一人だけならどうとでもなるというのがあるからだが、当然彼女の知る範囲でボーセリングの館内の事については聞けるだけは聞いてある。

「待たせたね、少しばかりこちらも立て込んでいたんだ」

 約束の時間についたセイネリアだが、確かにそれなりに待たされた。貴族相手ではよくある事なのでそれに一々苛立つような事もない。ただそう言って現れたボーセリングの狸親父が2人の人物を引き連れてきたのを見て、咄嗟にセイネリアは軽く身構えそうになった。
 言うまでもなくそのうちの1人は護衛役の飼い犬だが、もう1人は明らかに違う。服装からして使用人ではなく、傍の『犬』がその人物を恐れて緊張しているのが分かる。不愛想というより感情をまったく感じない表情の男は、雰囲気からしてただものではない。少なくとも横にいる護衛役の犬など即殺せるくらいの腕はあると思われた。ある意味クリムゾンと雰囲気が似てはいるが、あの男よりも落ち着いていて得体がしれない、腕もこの男の方が上だろう。だがセイネリアは初めてみたその男が何者かについては、見てだけでほぼ分かっていた。
 セイネリアの目がどうしてもそちらの男に行っていたのに気付いたのか、それとも最初からセイネリアがその男を気にするのが分かっていたのか、ボーセリング卿はそこでその人物を紹介した。

「あぁ、これは私の弟のアディアイネだ」

 言われて一歩前に出たその男は、セイネリアを見るとその無表情の中、口元を僅かに歪めた。そうして彼は手を伸ばしてくると、よろしく、とだけ呟いた。
 セイネリアはその手を握った。

「よろしく」

 それは本当にただの握手だった。別に強く握った訳ではないし、握ってすぐに離した。けれど互いにその手に感覚を集中させていた、だから分かる。

――少なくとも、純粋な戦闘能力なら今まであった中で一番だな。

 それでも負ける気はしないが。
 手を離した後、その男は今度は見て明らかに分かる笑みを浮かべていた。ただしそれは別に不気味なものなどではなく、意外なくらい普通に穏やかな笑みだった。

「ほう、さすがだね。アディは随分君を気に入ったらしい」

 本気で意外そうな顔をして、それからボーセリング卿は椅子に座る。セイネリアも促されて椅子に座った。

「では、私はこれで」

 だがそこですぐ、このクソ親父の弟という男はそういって数歩後ろに下がった。ボーセリング卿自身も引き留める事もなくあっさり、あぁ、と返事をする。セイネリアが男に目をやると、彼はこちらに目礼をしてから視線を外し、部屋を出て行った。

「よく俺に会わせてくれたものだ」

 いつも通り一見人の良さそうな笑みを浮かべた男にセイネリアがそう言えば、腹黒親父は善人の仮面をかぶったまま穏やかな声で答える。

「アディが会いたがっていたからね。それに、君は分かるだろうから隠す意味がない」
「そうだな。確かにあの男が『先生』なら犬が優秀なのも分かる」
「そういう事だ。納得出来たかね?」
「あぁ、納得した」

 『先生』というのは、ボーセリングの犬に暗殺技術を教えていた人間の事だ。
 その存在自体についてはセイネリアはカリンから前に聞いてはいた、『ボーセリングの犬』は皆、戦闘面の技術は『先生』と呼ばれる人間から学ぶと。ただし『先生』は『犬』達の前では仮面をかぶっていて顔を見た事がないと言っていたからその正体――ボーセリング卿の弟だなんて知っている筈はなかった。
 だからこの腹黒親父がセイネリアにその正体をわざわざ見せてくれたのはかなり意外だった。何か他の意図があるのかと疑うくらいに。

「いいのか、俺に『先生』の正体を教えても」
「構わないよ。なにせ弟の存在自体は秘密ではないし、公の席にも連れていっているからね。弟が何をやっているかが秘密なだけだが……君なら見ればあれが何者か分かってしまうだろう。だから隠す意味はない、違うかな?」

 そうやって笑いかけてくる親父はうすら寒い程一見、人が良さそうに見える。
 ただ当たり前だが、この男が何の裏の意図もなくこうしてあの人物に会わせた筈はない。

――ある意味脅しのつもりかもな。

 確実にあの男はボーセリング卿が動かせる駒の中では最強だろう。それを見せる事で、最近調子に乗っている若造に脅しをかけておく――あり得ない話ではない。もしくは相当、あの弟本人がセイネリアに会いたがったか――それも、あの反応からはあり得る話だろう。





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