黒 の 主 〜予感の章・二〜 【19】 ワラントの館――そう呼ばれているここにもうその名の人物がいない事は皆知っている。けれど組織内での通称も、裏街の連中の間でも、今でもここは『ワラントの館』である。彼女から受け継いだ時点でセイネリアがどう変えてもよかった筈なのに、彼はそのままその名を使う事を選んだ。 『その名で通ってるんだ、そのまま使えばいい』 カリンが一度聞いたらセイネリアはそう答えたので、以後は疑問に持つ事もなかった。だがその後、それでも変えた方がいいのではないかとマーゴットが言ってみたらしく、カリンは彼女からその時の彼女と主のやり取りの話を聞いた。 『まずは既に知られている名を使ったほうが知らせる必要がなく使えて良い、という事でした。あと組織はトップの者の名で呼ばれるようになるから、婆様の跡を継いだというのを分かりやすくしておく意味もあるそうです。それからあとは……ここを作った人間の名前を一つくらい分かりやすく残しておくのもいいだろう、とおっしゃってました』 カリンが聞いた時答えてくれたのは最初の内容だけで、おそらくその理由が一番大きいからわざわざその他を言わなかったのだとは思う。 だが、ワラントの名を残しておくため――という理由を言ったのは、聞いてきたのがマーゴット、つまりワラントに対して思い入れが強い者だったからではないだろうかとカリンは思った。少なくともワラントを母のようにも慕っていた彼女なら、その名を残しておきたいという言葉は嬉しかった筈だ。計算高い主なら、彼女のその感情を分かっていて言った言葉と考えられる。 けれど……本当にそれが計算だけの言葉かと考えるとカリンも分からない。 セイネリアは計算高く、その判断は常に冷静で情に流されない……とは思う。けれど時折、彼はそのイメージから違和感を感じるような感傷的な理由で行動する事がある。 例えば、騎士としての師であるナスロウ卿の事だとか、それに関わるザラッツの事だとか。グローディ領を守る仕事が終わった後、カリンは彼が『これでやっと肩の荷が降りた』『あのジジイへの恩は返した』という言葉を冗談めかして言っていたのを聞いていた。 自分に対して益のある者に対してはこちらに付く分の益を与えるべき――というのはセイネリアが常に言っている事ではある。 そこから考えると、既に死んだ者には考慮する必要はないように思える。 だが、ワラントの名を大事にしている事でマーゴット達のようなワラントを慕っていた者に対しての益となる、と考えるなら納得はいく。対外的にも、ワラントと友好関係にあった者に対しては、その名を残す事でのイメージ的なメリットは高いだろう。 ならワラントの名を残す事は完全に計算だけの判断でセイネリア自身の感情は入っていないのかと言えば……そうではない気がするのだ。 他にカリン以外いない場所で酒を飲むとき、彼は死んだワラントや師であった老騎士に杯を掲げる事がある。それは恩を受けた人物に対するただの礼儀や義務感からというより……やはり、彼にもそれらの人々に対して特別な感情があっての事ではないかと思うのだ。 彼にとって恩がある人々の名を口に出す時、主の瞳はどこか自嘲めいたものになる。それはもしかしたら、自分の中にある情に対する自嘲ではないかとカリンは思ってしまうのだ。 勿論、主が情に従って行動しようと、情を切り捨てて行動しようとカリンはどちらでも構わない。彼が自分に対してただの道具としての感情しかなくても、それ以上の情を持ってくれていても、どちらでもカリンは従うだけだ。幼い頃からの教えからくる考えなら、情がなく完全に計算だけで行動する事こそが理想の主だとは思う。情などない方が正しい判断を下せるとそう思う。 けれど……あの誰よりも強いあの男に、まったく情がないと考えるのは何故か悲しいとカリンは思うのだ。 ――私は、変わった。 『犬』でなくなった時から、カリンは自分の考え方がかなり変わったと感じていた。自分にもかつてはなかった『情』が生まれて、『情』によって行動してしまう事を自覚している。主に従っているのは彼が主であるという事以前に、彼であるからだと今でははっきり自覚していた。 「カリン様、ボスから伝言が来ています」 部屋にマーゴットがやってきて、カリンに伝言の記された紙を差し出した。差出人名はセイネリアで封の術も入っている、確かに冒険者事務局からのものに間違いなかった。 セイネリアは現在、用事があるといってラドラグスへ行っていた。行きは街間馬車を使うが帰りは魔法使いに迎えに来てもらうと言っていたから、帰りが決まればすぐ帰ってくる筈だった。 おそらく帰る日が決まったという話だと思って伝言を受け取ったカリンは、その内容を実際に見てから僅かに眉を寄せた。 思った通りセイネリアが帰るのは明日の朝……とそれを伝える内容なのはいいとして、加えてカリンに一人で迎えに来いと場所が記してあったからだった。 --------------------------------------------- |